マレーシアにおけるアジア通貨危機 6/8
110-065 浦上竜太郎
1 通貨危機の発生
1997年にタイで通貨危機が発生してから、今まで良好であったマレーシア経済は悪化した。タイや韓国と異なり、マレーシアの貿易収支は黒字であるが、投資収益収支や海上運賃の赤字により、サービス収支は赤字になっていた。しかし、当時は平均輸入月数の3月以上という外貨水準高が維持されているため、赤字拡大は大きな問題に至らなかった。
しかし、その後の半導体不況からマレーシアの主要輸出品である電気・電子製品輸出が低速した。この輸出減少とサービス収支の赤字により、経常収支赤字を増加させ、対外不均衡をもたらした。一般に、海外資本の導入により経常収支赤字のバランスをとることがなされており、1986年より外貨導入のための金融自由化措置が実施された。
2 通貨危機への対応
タイ通貨危機発生から二か月が経ち、1997年9月となっても通貨と株価下落が続いていたため、政府はIMF型政策(緊縮財政、経常収支赤字の縮小、金融引き締めなど)を取り始めた。
そこで、政府は12月5日に緊急経済対策を立て、緊縮経済の強化や金融システムの強化や非金融民間部門における緊縮の要因などを発表した。
主な内容は以下の通りである。
@ 予算歳出の18%削減
A 大型プロジェクトの延期対象の拡大
B 銀行の融資の自粛
C 新規の上場凍結
また、経済成長率見通しも7%から4〜5%に下方修正された。他には、1990年に入ってから急速に整備されてきたクアラルンプールの都市内交通インフラ整備も中断された。
しかし、株式市場の低迷や金融引き締めによる金利上昇は、企業の投資を鈍らせ、内需を減少させた。緊急経済対策による大型プロジェクトの凍結や銀行の融資緩和が、国内企業の経営を圧迫したことも投資を減少させる原因となった。この金融面の悪循環は、通貨や株価の下落や信用収縮の連鎖によって生じたものであり、さらに、このことが通貨安や株安や信用収縮を促進するという新たな悪循環が発生させた。
1998年の経済成長がマイナスになることが確実視されると、緊縮政策の効果が疑問視された。その後、金融と財政の両方の面での緩和がなされ、景気刺激策を盛り込んだ国家経済回復計画が発表された。また、リンギ安の心配なしに金融緩和など経済支援を行うために、1ドル3.8リンギで固定するドルペック制の導入を発表した。
このようにIMFの支援によらない対応が可能だった理由としては、早い時期に自国通貨の買い支えを放棄し外貨準備を枯渇しなかったこと、企業の海外からの借り入れが少なく、不良債権問題が国内にとどまったこと、金融システムの不良債権比率が比較的低く国内資金で解決できたことなどがあげられる。
3 通貨危機後の経済回復
1999年になると、マレーシア政府の政策や、マレーシアからの輸出が好調となったため、マレーシアの経済成長率は、前年度の‐7.4%とは異なり、4.1%まで上昇した。これは、パーム油や石油など一次産業品やおよび外資を中心とする電気、電子産業の輸出が好調だったことや、政府の経済政策が効果を上げたことが理由として挙げられる。その後、2000年には成長率が8.3%となったものの、2001年における米国経済の減速により電気、電子産業の輸出が悪化し、経済成長が減速した。
2001年における経済政策として、国家展望政策(NVP:National Vision Policy)が制定されており、これは、アジア通貨危機のような他国の経済変動に対応して経済成長を維持するための競争力の獲得や、これを支える安定した社会を実現することが目標とされている。強力な経済競争力を獲得するための政策としては、知識基盤型経済すなわちK‐エコノミー(knowledge based economy)への意向が示されており、ITの活用や人材の育成や情報インフラの整備などが進められている。