ルックイースト政策と工業化 12/05/18
110-065 浦上竜太郎
1 ルックイースト政策時代(1981〜)
マレーシアでは、1981年12月に新たな方針として「ルックイースト政策」を発表した。
それは、それまでイギリスや西洋諸国に偏っていたマレーシアの政策を改め、日本や韓国の技術や経済哲学を学ぶことでマレーシアの経済発展を加速させようとするものである。
主な政策としては、国策的自動車会社であるProton社がHICOM(マレーシア重工業公社)と三菱商事と三菱自動車の合弁によって1983年に設立された。これは、国内自動車産業の合理化や雇用産出などを合図する結果となったが、一方で、所得が低く狭いマレーシア市場において、先進国の自動車企業と競争を続けるのは困難となった。このように、1980年代には巨額の初期投資を要する重化学工業による経済発展が図られた。
その後、1978年に起こった第二次石油危機や1985年に起こったプラザ合意による円高により、国際競争力が低下した日系企業が、安価な労働力や原油を求めてマレーシアに多数進出した。これで、マレーシアにおける海外直接投資額と先進国への工業製品輸出額が急増した。
2 成長の三角地帯
ASEAN内貿易よりも相互投資を重視した経済協力を目指すため、1989年にマレーシアのジョホール州とシンガポールとインドネシアのリアウ省による「成長の三角地帯」という経済協力体制構想をシンガポールのゴー・チョン・トン副首相によって提案された。
(こちらは「南の成長の三角地帯」と呼ばれており、一方で、ペナン島とタイとインドネシアを組み合わせた「北の成長の三角地帯」もある。)
この構想の目的は、輸出競争力が低下した産業の対外進出を促すことが目的であり、これによりシンガポールの資本や技術やマレーシアやインドネシアの土地や労働力の生産要素が結合され、経済成長を促した。
クアラルンプール周辺や成長の三角地帯においては、安価な労働力を求める多国籍企業の影響により特に電子・電気産業が大きな割合を占めていた。
マレーシアの電子・電器産業の特徴としては以下の通りである。
・1980年中期以降に進出した多国籍企業の国際生産ネットワークに組み込まれることで急激に経済発展し、1990年初頭には日本やNIEsをしのぐ世界的な電子・電気機械生産輸出拠点としての地位を確立したこと
・海外直接投資の導入により先進国から移植された産業であるため、外資依存度が高いが、電子・電気産業全体として供給の拡大と製品製造の高度化を同時に達成することにより経済を引っ張る役割をしていること
・ASEAN諸国において電子・電気産業など機械産業の域内分業が拡大しており、競争力を高めるために地域協力を中心としていること