世界の注目市場の変革            10/5

                             110-065 浦上竜太郎

1970年代のNICs

 1970年、OECD(経済協力開発機構)がNICs(ニックス)という名称および概念を発表する。NICsNewly Industrializing Countriesの略で、日本では新興工業国群と訳された。

 アジアNICs(または、単なるNICs)→韓国、台湾、香港、シンガポール

(アジアNICsは、当時は発展途上国であったが、シンガポールのように一人あたりのGDPが日本を追い越し先進国に変化してきている国もある。)

ラテンNICs→ブラジル、メキシコ

ヨーロピアンNICs→ギリシャ、ポルトガル、スペイン、ユーグスラビア

 ※後に、NICsの名称は、1988年のトロント・サミットの際にNIEsNewly Industrializing Economies)と変更され、邦訳も新興工業経済群または新興工業経済地域とされている。

 

1980年代の中国 

 1972年、当時の田中角栄氏の訪中により日中国交が回復した。その後、日中間の貿易が拡大し始めると同時に、日本から中国への技術援助などの直接投資が拡大した。

 1980年代は、日本企業の中国を見る目にはかなりの差があった。中国とのビジネスに懐疑的だった企業、注意深く慎重に成り行きを見守りながら日本からの完成品輸出のみに限定する企業、チャイナリスクが不透明な中、日立製作所やパナソニックのように直接投資に踏み切った企業など、中国に対する対応がわかれた。

 1980年代から、本格的に日中間の貿易、直接投資などが始動し始め30年が経過し、日中韓の経済関係や日本企業の中国依存度は構造的に変化した。

 現在の日本の貿易に関してみると、2011年には、中国との貿易総額27.5兆円は、日本の貿易総額133.6兆円の20.5%をしめている。ここに、日本の貿易の対中依存度の高さがわかる。(JETROより参照)

 

1990年代のインド

 1990年代に入ると、今度はインドが脚光を浴びることになる。

1990年以前、インドでは国有企業が経済発展の担い手となり、インドの国内企業には厳しい事業ライセンスが課された。また、外資に対してはあらゆる規制を課した。しかし、1990年の湾岸戦争で原油が高騰し、インドの貿易収支は一挙に悪化し、国家経済の破たんに陥った。それゆえ、1991年に発足したラオ政権ではIMFなどの融資を受け、一定の経済改革を打ち出した。

国内投資の自由化、貿易の自由化、外国投資の規制緩和、財政改革、国有企業の改革

などがある。これにより、インドの経済は外資への開放を含む市場経済に転換を行った。

 インドが1990年に脚光を浴びたのは、インドが中国同様、国土が広く人口が多いので経済発展をするという単純な議論ではない。過去の経済成長や農村と都市との経済格差などのマイナスが、外資への開放を含めた経済自由化で大きくプラスに変化するのではないかということに世界中から注目が集まったからである。

 

2000年代のBRICs

 2003年秋に米国の投資銀行ゴールドマンサックスのエコノミスト、ルーパ・プルショサーマン女史が発表したレポートである“Dreaming with BRICThe Path to 2050”がきっかけで、BRICsという言葉が有名になった。

 日本企業では以下のような“変型BRICs”が出現している。これらは、各企業の戦略の差を示している。

 

BRICS→建設メーカーがSSouth Africa)の重要性を示している

BRICKs→電機メーカーがKKorea)の重要性を示している

BRIICs→機械メーカーがIIndonesia)の重要性を示している

BRICs+V→パナソニックが自社の注力国としてのVVietnam)の重要性を示している

 

以上、世界の注目市場の変革の歴史を紹介した。

 

また、現代においては、民主化が進むミャンマーに進出を試みる企業やすでに進出している企業が増えており、目が離せない状況となっている。今後、ミャンマーに関する調査も行う。

 

 

参考:『激動するアジア経営戦略』 安積敏正著