インドネシアにおけるアジア通貨危機  2010/4/30 

108-085 大野 瑛介

 

1.    危機への対応とルピアの暴落

 

 アジア通貨危機の影響を受けたインドネシアに対し、11月には日本、シンガポール、インドネシア、三か国の中央銀行による共同介入が行われ、一時期は1ドル3600ルピアから3200ルピアに値を戻す。

 しかし、その後インドネシア政府が、廃止予定のプロジェクトを変更したことを背景とし、市場にはインドネシア政府に対する疑念が広がっていった。具体的には、支援パッケージ合意の前提となっていた大型プロジェクトの内15が、合意の翌々日には復活したこと。

その内、大統領の長女と次女の関与する発電プロジェクトは即日実施されたこと。大統領の家族が経営する銀行が閉鎖されたが別の法人で復活したことなどが挙げられる。

 また、IMF経済調整プログラムに組み込まれた16の金融機関が、預金者保護を完全に確保せずに閉鎖したことで、健全な銀行までも信用が低下し、また大口のインターバンク取引における債務も支払われなかった為、信用力の無い銀行は資金調達が困難となる。こうしたインドネシアの銀行部門の信用低下はドル資金の調達を困難にし、為替にも影響を与える。こうして、ルピアは11月から12月にかけて大きく下落していく。

 さらに、スハルト大統領がASEAN首脳会議を欠席したことにより、市場には大統領の健康不安説が流れたこと、予算制定が楽観的な前提に立っていたことに対する市場の反発もあり、通貨危機から翌年の126日には1ドル12950ルピアとなり、6月末の1ドル2432ルピアから8割減となった。

 

2.    スハルト大統領の退陣

 

 29日にスハルト大統領はカレンシー・ボート制(固定為替制の一種)の導入を示唆し、これに反対するIMFとの対立が起こり、政策的に先の見えない時期が続く。この対立で30億ドルの支援を含む第三次プログラムが凍結されるが、日本の橋本内閣の働きかけもあり、4月には公共料金の大幅な値上げを含む第三次プログラムが合意される。

 しかし、55日にメダンで市民暴動が発生し、値上げの撤回、スハルトの退陣を求める動きが起こり、スハマトは退陣を表明した。このような中、1ドル16650ルピアの最安値を更新し、政治的経済的不安の中、98年には−13.4%の大幅なマイナス成長となった。

 

参考文献 

黒岩郁雄(2002)『アジア通貨危機と援助政策 インドネシアの課題と展望』 アジア経済研究所