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107-387 藤澤桃美

小袖の歴史

 

 以前、「小袖」とはきものを代表する呼称だったと述べた。(研究成果〜演習T〜の「小袖」:2009522日発表を参照のこと。)そして、簡単にその歴史についても触れたが、なぜ小袖がきものの呼称となったのか、ここで、より詳細に述べてみようと思う。

 

「小袖」とは、平安時代中期にできた言葉である。その字のとおり、袖口の小さいものを指し、「大袖」と区別するために生まれた呼称である。それ以前は、衣服全般は「衣」と呼ばれていたが、奈良時代後期〜平安時代において、公家と庶民を区別するために大袖と小袖に二分化された。ちなみに、小袖は筒型の袖がある現在の洋服に当たるものであり、大袖は衣冠束帯の「衣冠」に当たるものである。

衣服の二分化の兆候は、飛鳥時代〜奈良時代における、活動量による衣服の変化にみられる。支配階級である高位の人々は活動する必要がないため、手足の隠れる動きにくい衣服を身に纏うことで労働する意思がないことを示していた。つまり、庶民に対して身分を視覚的に表し、自分たちと庶民は異なるという意識を植え付ける一種の洗脳行為を行っていたのだ。

鎌倉時代〜室町時代になると、小袖を着用する庶民の中から武家が現れた。権力を持った武家の人々は大袖を着用するようになるが、身体的な力という面では明らかに武家の方が公家よりも勝っており、武家に対する公家の衣服による洗脳行為は成り立たなくなる。つまり支配関係は崩れる。

そうはいっても、武家が大袖を身に付けるのはフォーマルな場に限定されており、日常的に着用するのは専ら小袖であった。しかしながら、視覚的な身分の区別をどうにか行いたいのが武家の心情である。ここで再登場するのが「動きにくさ=階級の高さ」の概念だ。武家はこの時点ではまだ筒型であった袖を、現在のきものにみられる袂に変化させた。そうすることで動きにくくして、階級の高さを感じさせる衣服へ変えたのだ。ある意味、「成り上がり」を表す衣服ともいえる。

同じく庶民の中から頭角を現した町人だが、彼らの強さは金銭面にあったため、力の強さを表現する必要はなかった。それゆえ、町人たちは大袖を着用することはなかったが、その代わりに素材(庶民は麻、町人は絹)で区別を行った。

整理すると、この時点で存在する衣服は、大袖、従来の小袖、袂のついた小袖である。2つの小袖に別々の呼称をつけたいが、大袖がある以上その対である小袖の名をなくすことはできない。そこで袂のついた小袖を「着るもの=きもの」と呼ぶようになった。そうして、袂のついた小袖が一般的になると、「小袖=きもの」の意識が広まった。さらに、大袖は洋服にとって代わられてなくなり、大袖と小袖を区別する必要がなくなった。

その結果、長きに渡って広まった小袖=きものの意識が小袖ときものを同等のものとする認識を生んだのである。