平成21年11月13日
『剥皮』
106-381伴 明典
残酷な私刑
剥皮は凌遅に劣らない残酷な刑罰である。しかし、官が定めた正式な刑罰としては例が少ないので凌遅と比べると私刑としての色合いが強い。
漢の景帝のとき、広川王劉去が「生の人を割剥した」『漢書』とある。また、三国時代、呉の最後の皇帝孫皓が人の皮をはいだことがあった。孫皓は人臣として君主に礼を失ったものにこの刑を科した。
明の朱元璋
明朝にいたって、皮剥ぎの刑はもっとも多用された。明朝の太祖朱元璋から明朝の終わりまで少なからぬ人物が皮剥ぎを実行した。
朱元璋は、建国間もない自分の足場を強固にするために苛烈な方法を用いた。剥皮揎草は彼の発明である。
彼は、官吏の責任を問うことがはなはだ厳しかった。暴虐な官吏がいれば民衆に訴えさせ、汚職が銀六十両以上ならば死刑にした。また、全身の皮をはぎその中に草を詰め込み役所の門の内に置き他の官吏の見せしめとした。
参考文献
王 永寛 (1997)『酷刑−血と戦慄の中国刑罰史』鞄ソ間書店