平成21年10月23日
『車裂』
106-381伴 明典
五台の車で肉体を引き裂く
なぜ車裂というか。それは、罪人の頭と四肢をそれぞれ五つの車に縛りつけ、それを一度に別の方向に馬で引かせ、肉体を五つの塊に引き裂くからである。
ときに車を使わず直接、五頭の馬に引かせることもあるので車裂は五馬分屍ともいう。
車裂は周王朝の時代には実施されており、春秋戦国時代で多く見られる。
秦の改革を行った商鞅が敵対していた恵文王に車裂で処刑されたほか、呉起や蘇秦、趙高のように死後にその身体を引き裂かれたものもいる。
最も重い等級の死刑
五胡十六国時代の死刑は四等級にわかれており最も重いものが車裂、北周では五等級となり、やはりその五番目が車裂であった。
いずれも朝廷により法律として明文化されている。
この刑は、不孝を行った者に課せられるもので、前秦の376年、母の金銭を盗んで逃走した男が刑に処せられた。
以後、車裂は残酷ということで廃止されたり、また再開されたりもした。しかし、1000年前後を境に正式な刑として姿を消すことになる。
参考文献
王 永寛 (1997)『酷刑−血と戦慄の中国刑罰史』鞄ソ間書店