平成21年7月17日
『胡亥3』
106-381伴 明典
陳勝の反乱
胡亥即位二年の七月、貧農出身で荊州の地を守っていた陳勝が反乱を起こした。
陳勝は自ら自立して張楚を建て、自らを楚王とした。陳勝は諸将を各地に派遣した。
秦の首都の東の関所より東の若者たちで、秦の酷使に苦しんでいたものがこれに呼応して郡の役人や県の役人を殺していった。
それらも者が、王や候を名乗り、合従して西に向かった。
秦を討つ、を名目にしたものは数え切れないものであった。
国の対応
宮中の賓客を応接する官のものが東に向かって帰ってきた。そのものが二世皇帝に反乱の現状を報告した。
二世皇帝はこれを聞いて怒り、獄吏に下して罪を問わせた。
その後、使者が都に来た。実情を聞くと、今頃、官吏のものが追いかけて捕まえている頃でしょうと報告した。二世皇帝は大いに喜んだ。
ところが、各地では反乱がつづき、趙、斉、魏が興り、劉邦が沛で挙兵、項梁(項羽の叔父)が会稽郡で挙兵した。
二世皇帝は、現状を把握していなかった
参考文献
吉田賢抗 (1973)『史記 一 (本紀)』 明治書院