平成21619

『胡亥1

106-381伴 明典

 

 

粛清

 胡亥には悩みがあった。若い皇帝である自分に大臣たちが服していないことや、官吏の力が強すぎ従順でないことである。

また、諸公子が自分と帝位を争うのではないかという不安もあった。

 この不安を、側近の趙高に相談したところ、陛下の心配は私も感じております、と答え胡亥にこの機会に郡県の守尉の罪のあるものを取り調べて誅罰を加えて、皇帝の威を天下に示し、不正をする輩を取り除くことをすすめた。

 趙高の意見を取り入れ、胡亥は、粛清を開始した。胡亥は、誅罰を大臣及び諸公子に対し行った。

誅罰に関しては連座制で、年若い近侍の役人や、六歳に満たない者まで連座したのでこの粛清から脱しうるものはいなかった。

六人いた公子は全て殺された。罪状もいい加減なものであった。

 このようなこともあり、皇帝の一族は恐れおののいた。群臣の中でいさめる者があっても皇帝を誹謗するものとされた。

大臣らは、秩禄を離れまいとして、皇帝の意を迎えるように努めるだけになった。

 人民は方の厳格さの恐れおののいた

 

 

 

 

 

参考文献

吉田賢抗 (1973)『史記 一 (本紀)』 明治書院