平成20年12月19日
『始皇帝の政策5』
106-381伴 明典
焚書坑儒
秦の政治は法家思想にもとづいて行われていたが、それを儒家の思想をもった人々が昔の制度を根拠として非難するため、前213年に李斯の献言によって思想を統制しようとした。医学・占い・農業以外の書物は役所で使用するものは除き、全て提出させ、三十日以内に焼却された。この令に従わないものには、罪人として刺青を彫られ、長城建設などの重労働に従事させられた。
翌年の前212年には、神仙道を説く方士たちが始皇帝を誹謗したのをきっかけに、儒者を含む460人あまりを穴埋めにして殺してしまった。
影響
焚書により、儒教の経典の楽経(儀礼につけられた儀式音楽)が消失してしまった。
始皇帝の長子の扶蘇が焚書坑儒について諌めたため北方防衛の任務に就かされることになった。
参考文献
伊藤道治 (1977) 『中国社会の成立1』講談社
wiki焚書坑儒
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%9A%E6%9B%B8%E5%9D%91%E5%84%92