平成201212

『始皇帝の政策4

106-381伴 明典

 

 

車軌の統一

 戦国時代の時は、各国で馬車の車輪の幅が違っていた。そこで、始皇帝は車輪の幅を統一した。

もともと、車輪の幅が違っていた訳は、戦国時代に遡る。当時の国々は、よその国の車が入ってこられないように車輪の幅を変えていた。なぜ車輪の幅を変えることによって、その国の車が入ってこられないかというと、その車輪によって深い轍ができ、それをレールのようにして車が走っていたからである。当時の車のほとんどが、戦車であったため、轍の幅が違えば、敵軍は容易に進軍できなくなるわけである。

秦が国家を統一した今、車輪の幅が違うことは、全国の交通を阻害すると考え、車軌を統一した。

 

 

馳道(ちどう)

 咸陽を中心として、全国の主要地、特に、六国(韓、魏、趙、燕、斉、楚)の首都へ通じる幹線道路で、路面を高くして鉄錘でつきかためた。道幅は、50(69.3)もあり。中央の三丈(9)は皇帝の専用路であり、松の並木が植えられていた。

 始皇帝の東方巡遊の際は、もっぱらこの道が使われた。

 

 

 

参考文献

樋口隆康 (1996)『始皇帝を掘る』 学生社

事績:http://www.geocities.jp/aydahn42df5/shikou3.html