平成20年12月12日
『始皇帝の政策4』
106-381伴 明典
車軌の統一
戦国時代の時は、各国で馬車の車輪の幅が違っていた。そこで、始皇帝は車輪の幅を統一した。
もともと、車輪の幅が違っていた訳は、戦国時代に遡る。当時の国々は、よその国の車が入ってこられないように車輪の幅を変えていた。なぜ車輪の幅を変えることによって、その国の車が入ってこられないかというと、その車輪によって深い轍ができ、それをレールのようにして車が走っていたからである。当時の車のほとんどが、戦車であったため、轍の幅が違えば、敵軍は容易に進軍できなくなるわけである。
秦が国家を統一した今、車輪の幅が違うことは、全国の交通を阻害すると考え、車軌を統一した。
馳道(ちどう)
咸陽を中心として、全国の主要地、特に、六国(韓、魏、趙、燕、斉、楚)の首都へ通じる幹線道路で、路面を高くして鉄錘でつきかためた。道幅は、50歩(69.3m)もあり。中央の三丈(約9m)は皇帝の専用路であり、松の並木が植えられていた。
始皇帝の東方巡遊の際は、もっぱらこの道が使われた。
参考文献
樋口隆康 (1996)『始皇帝を掘る』 学生社
事績:http://www.geocities.jp/aydahn42df5/shikou3.html