平成20年11月28日
『始皇帝の政策2』
106-381伴 明典
中央集権制度の確立
秦では、六国を滅ぼした後、全国をどのように統治するかが論ぜられた。宰相の王綰らは、広大な地域を統治するには単一の政府では不可能なので、かつて周がおこなったように王子を各地に派遣し支配させるのが良いと主張した。
廷尉(最高司法長官)の李斯は周の子弟一族の封建は、時代がたつにつれ血縁が疎遠になり結局お互いに争い、ついには本家もこれを抑えることができなくなり混乱を招いた。よって、すべてを郡県にして地方長官を派遣し、そこで得られる税収を臣下に与え恩賞を持って叛意を持つことを防ぐのが良いとした。
始皇帝は李斯の案に賛成し、全国に郡県を置いた。それは、封建を行なって諸侯を置くことは、諸侯に軍備を許すことになるからである。始皇帝は、全国を36の郡にわけ、郡はいくつかの県を管轄し、郡の長官である郡守、県の長官である県令は、皇帝自らが任命した。また、随時任地の移動が行われ、地方官が一つの地域に定着し勢力を持つことを防いだ。
参考文献
樋口隆康 (1996)『始皇帝を掘る』 学生社
宮城谷昌光 (2008)『戦国名臣伝』 文春文庫
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