平成20117

『恵文王』

106-381伴 明典

 

商鞅を殺す

 恵文王はまだ太子の頃、法に触れ商鞅に殺されそうになった。王の取り成しにより命は助かったが、守役が罰を受け、侍従が殺されてしまったので商鞅を恨んでいた。考公が死んで商鞅の後ろ盾がなくなると真っ先に商鞅を殺した。しかし、商鞅が作った法律は残した。

 

巴蜀を手に入れる

 B.C.316に蜀で内乱が起きたのでそれに乗じて、関中の後ろに広がる巴蜀を侵略した。それにより穀倉地帯を手に入れた。また、巴を侵略することにより、長江を使うことができるようになり、楚へ攻める際、河を使えるようになった。

 

楚を討伐

 恵文王は張儀を楚に送り、六百里四方の土地を献上するから斉との同盟を破棄して欲しいと楚王に頼んだ。楚王はこれを聞き入れ斉との同盟を破棄した。        

しかし、秦から送られたのは、六里だった。抗議したが聞き入れられなかったので、怒った楚王は、国内のほぼすべての兵を以って秦に攻め込んだ。斉との同盟を破棄し、国際的に孤立していた楚は空同然の国を魏に攻められ撤退し秦に敗れた。これがきっかけで楚は衰退していった。

恵文王は、大国楚を破り秦は統一へ一歩近づいた。

 

参考文献

樋口隆康 (1996)『始皇帝を掘る』 学生社

宮城谷昌光 (2008)『戦国名臣伝』 文春文庫

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