平成20年10月24日
『商鞅』
106-381伴 明典
法の浸透
秦は元々法治国家でではなかった。商鞅の変法によって、秦のシステムは大幅に変わり、今までの常識では通用しなくなった。商鞅は、変法によって秦の国法がめざましく変わったので、民衆が戸惑ったり、誰もそれを信じようとしないのではないかと思い、ある策を用いた。
商鞅は、国都の市の南門に民衆を集めた。商鞅は三丈の高さの木を南門に立て、立て札を立てた。「この木を北門に移しておくことができたものには十金を与えるであろう」。高さ三丈の木とは、約6.75メートル。成人男子でなくても簡単に移すことができる。そんなことで、十金がもらえるはずがないだろうと思った民衆は誰も信じず、木を運ぼうとするものはいなかった。そこで、商鞅は運んだ者に五十金を与えるといった。すると、一人でてきて材木を運んだ。商鞅は約束どおりその者に五十金を与えた。
こうして、商鞅は、変法を施行することができた。
商鞅が変法をしてから約二十年がたった。考公が死に、後ろ盾がいなくなった商鞅は、商鞅を恨んでいるものに殺されそうになった。あわてて、都から逃げた商鞅は、途中宿に泊まろうと思ったが、宿の亭主にこういわれた。「商鞅さまの厳命により旅券を持たないものは泊められない法律になっております。」と。
変法から20年。商鞅の作った法は民衆に浸透していた。
参考文献
樋口隆康 (1996)『始皇帝を掘る』 学生社
中国的こころ:http://www.h3.dion.ne.jp/~china/CHINA1.HTML