平成20年10月17日
『商鞅』
106-381伴 明典
第二次商鞅の変法
@父子兄弟が一つの家に住むことを禁ずる
A全国の集落を県に分け、それぞれに長官、補佐をおく
B田地の区画整備
C度量衡の統一
秦では父子兄弟が一緒に住む習慣があったが、中原では野蛮とされていた。そこで、野蛮な風習を改めると共に、戸数を増やして税収を高め国力を強くした。
改革を断行した商鞅であるが、商鞅をとりたてた考公が死ぬと、商鞅は、今まで彼を恨んでいた者たちに殺されてしまった。
楚の呉起
呉起は、楚の悼王に仕えた。楚は他の諸国に比べ貴族の数が多く王権が弱かった。そこで、呉起は、貴族の爵位を剥いで、荒地に追いやり開墾をさせ、多くの土地を得ると共に貴族に払っていた金を浮かせ、それを軍備に回し富国強兵を実現させた。
また、神政国家であった楚を、周囲の反対を受けながらも法治国家にするなどの改革をおこなった。この、改革により楚は勢いをつけた。しかし、悼王が死ぬと呉起も殺されてしまった。
秦と楚の違い
楚は呉起が死ぬと改革を元に戻し旧態依然な国家に戻ってしまった。逆に、秦は商鞅が死んだ後も、商鞅の作った法律を廃止しなかった。これが、統一を果たした国家と滅びた国家の違いである。
参考文献
樋口隆康 (1996)『始皇帝を掘る』 学生社
中国的こころ:http://www.h3.dion.ne.jp/~china/CHINA1.HTML