平成20年10月3日
『商鞅』
106-381伴 明典
秦の考公
秦は西方の僻地にあり、中原の諸侯からは、蛮族扱いにされ会盟にも招かれることはなかった。考公は、仁政に努め孤児を救済したり、論功行賞を公平にするとともに、秦を強大な国家にするために、天下に有能な臣下を求めた。そこに現れたのが、公孫鞅いわゆる商鞅である。
商鞅
商鞅は衛の国の生まれで、名を公孫鞅といった。商鞅の生まれは衛の国は、魏の勢力圏にあったため、衛の生まれの商鞅は、魏で盛んであった法家の思想に親しみ、自らも法家になった。
商鞅は、秦での政治において法家の学説を用い、前356と前350の二回にわたって改革を断行した。
第一次商鞅の変法
前356年、商鞅は第一次変法をおこなった。
@什伍の制:五家、十家ごとに組織をつくり互いを監視させる。何かあった場合告発の義務がある
A分異制:男子が二人以上いるのに分家しない場合人頭税を倍にする
B軍功報奨制:戦で功績のあるものに爵位を与え、私闘するものは罰する
C爵位制:爵位を作る
D重農抑商主義:農業を推し進め、商業を抑制する。
はじめの内は、人民も苦しんだが、三年たつとこれを便利とし、国中は豊かになった。
参考文献
樋口隆康 (1996)『始皇帝を掘る』 学生社
中国的こころ:http://www.h3.dion.ne.jp/~china/CHINA1.HTML