平成2052

斉の襄公

106-381伴 明典

 

斉の台頭

斉は、周の時代に太公望呂尚が営邱に封ぜられてできた国で、現在の山東省でできた国である。太公望から十二王を経て、襄公の代になってくると歴史に登場してくる。

 

襄公

 襄公は太子の時代、従兄弟の無知といがみ合っていた。襄公が即位した際、無知の位を下げたので、無知に恨まれてしまった。

 また、魯の桓公が夫人・文姜を連れて斉に訪問した際、襄公は桓公夫人と密通した。実は、襄公と文姜は兄妹で文姜が桓公に嫁ぐ前から関係があった。これを、聞いた桓公は怒りこれを叱責した。夫人はこれを襄公に告げた。これを聞いた襄公は、桓公と酒を飲み酔わせたところ、公子彭生を使い殺した。これを、魯の国人が非難すると彭生を殺して陳謝した。

 この時代の貴族階級は、部族の血を純粋に保つための血族結婚をする習慣が残っていたらしい。

 

瓜のなる頃 

襄公即位して八年のとき、紀を討った。その守りに連稱・管至父をつかせた。襄公は来年の瓜のなる頃に交代させると約束したが、約束は果たされなかった。ある人が、交代するように請うたが襄公は許さなかった。これを知った二人は、大いに怒った。そして、無知を立てて乱を起こそうと謀った。

 

襄公の死

無知・連稱・管至父は、襄公が怪我をしたと聞き一味を連れて公宮を襲った。公宮側も反撃したがかなわず襄公は殺されてしまった。そして、無知が斉君となった。

 

参考文献

貝塚茂樹他 (1989) 『中国のあけぼの』 河出書房新書

吉田賢抗  (1977  『史記五 (世家上)』 明治書院