平成20425

東周初期

106-381 伴 明典

 

春秋と戦国

 770年に都を成周に移した。それ以前を西周、それ以後を東周と呼ばれ二つに分けられている。また、東周も時代を二つに分けることができる。

 東周は、春秋時代と戦国時代に分けられる。春秋と戦国の名はどちらも書物の名前から取られている。『春秋』は孔子が編集した 魯国の年代記である。期間は、前723年から前481年の間である。『春秋』の終わりは、西狩獲麟という有名な言葉で締めくくられている。

 戦国は、前漢の『戦国策』から取られている。『戦国策』は七つの大きな国が争った次代の、縦横家と呼ばれた者たちの弁論集である。時代は春秋時代の終わりから始皇帝の天下統一までの期間である。

 

周の没落

770年、成周に都を移した東周であったが、東遷の際、共にした鄭の国に支えられなお、王朝の権威を保っていた。しかし、周は臣下の土地と自らの土地を交換したので、天子と諸侯と同列の地位と自ら下げるようなことをしてしまった。このことから、周の権威は低下してしまった。

 鄭は、荘公の時代になると、周を軽んじ朝覲するのをやめてしまった。周は諸侯を率いて親征したが、かえって鄭の軍にやぶられ周の権威は非常に軽んぜられるようになった。

 

鄭国のその後

 鄭国は、勢いを得て斉の国を救うため北方の蛮族を破るなど諸侯の中でも頭角を現すようになった。

 しかし、荘公の死後は内乱が起こり、また諸侯の利害が絡まって、鄭国は、戦場の場になり国力が衰え弱小国になってしまった。

 その間に、自国の国力をまし後に歴史に登場してくるのが斉の国である。

 

参考文献

貝塚茂樹他 (1966) 『東洋の歴史2巻』人物往来社

参考URL

http://www.h3.dion.ne.jp/~china/CHINA1.HTML