西周の滅亡、そして東周へ
106−381 伴 明典
滅亡の兆候
周の王、幽王は大地震が起こり水・渭水・洛水の水が涸れてしまう大事件が起こった。識者たちは、川が涸れたりするのは国が滅びる証しとして心配したが、絶世の美女褒姒の虜になり政治を怠っていた。
褒姒を溺愛していたため、幽王は后である申后が産んだ太子宜臼を廃嫡し、褒姒との間にできた子、伯服を太子とした。これにより、申后の親の申候の恨みを買うことになる。
笑わない美女褒姒
褒姒は美しい女であったが、笑うことはなかった。幽王は、美しい褒姒が笑えばなお美しいだろうと思い手をつくして褒姒を笑わせようとしたが、彼女が笑うことはなかった。
幽王は、外敵がせまれば、烽火を持ってこれを知らせる方法を取っていたが、あるとき幽王はたわむれで烽火をあげた。烽火を見た諸侯たちは息を切らせてやってきたが、来てみれば敵の姿が見えない。呆然としている諸侯たちを見て褒姒ははじめて笑った。これを、見た幽王は、褒姒を笑わせるために烽火を上げるようになった。諸侯たちは、たびたび幽王に騙されたのでついには烽火を上げても来なくなってしまった。
申候の反乱〜東周誕生
幽王を恨んでいた申候は、犬戎などの遊牧民族をさっそって兵を挙げた。幽王は、急いで烽火を上げたが諸侯たちは集まらなかった。ついに、幽王と褒姒との間の子伯服は殺された。宗周(鎬京)は犬戎に荒らされて西周はここに滅びてしまった。前771年のことである。
その後、幽王により廃嫡された宜臼が周の東方拠点の成周(洛邑)に拠点を移した。この出来事を東遷という。
宜臼は成周にて即位し平王となった。前770年、東周が始まり、春秋戦国時代が始まっていく。
参考文献
貝塚茂樹他 (1966) 『東洋の歴史2巻』人物往来社
参考URL
http://www.h3.dion.ne.jp/~china/CHINA1.HTML