対話も感情もない「萌え」のむなしさ
― 犯人、楓ちゃんをフィギュア化 ―


 非人間的なんて言葉は最早むなしい。言えるとしたら、脱人間的、没人間的という表現しかないのではないか。

 この日刊スポーツの紙面でも少しコメントさせていただいた奈良市の有山楓ちゃん(7)誘拐殺人事件。

 書くこともおぞましいが、犯人が「娘はもらった」というメールとともに母親の携帯電話の画面に送りつけてきた写真は、その後、殺害後のものらしいことがわかった。さらに犯人は浴槽のような所で少女を水死させ、遺体に無数の傷をつけていたことも明らかになった。

 もちろんいまの段階で犯人の動機は不明である。だが、私はこれらの状況からどうしても最近気になっていた「萌え」という現象を思い起こしてしまう。

 なぜ萌えというのかは、諸説あって不明だが、要は若者たちが生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行くというのだ。そこにある特徴は人間の対話と感情をまったく拒絶しているということである。少女に無垢であってほしいのなら「キスしたい」という呼びかけに「ワタシ、男の人とキスしたことがないから、どうしていいのかわからない」と答えさせ、その答えに満足するのだ。自分の意に沿わない答えや、気に入らない少女の心の動きは完全に拒否する。

 パソコンの中で、それぞれ名前をつけられた少女たちのフィギュアショップがアキバと彼らが呼ぶ秋葉原に次々にオープン、遠くから若者たちが自分の好みのコスチュームをつけた少女のフィギュアを求めて買出しにやって来る。

 もちろんまだ犯人像が絞れないいまの段階で、今度の事件の犯人を直接、この萌え現象と結びつけることはできない。ただ、解剖結果から誘拐直後に殺害しているということは、犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない。その上でフィギュアになった少女の写真を母親に送りつけ、ここでもまるでモノをやり取りするかのように「娘はもらった」という言葉を使っている。これまでの誘拐犯なら「娘はあずかった」だ。

 もう一点、犯人は少女を浴槽のような水を張ったところで水死させている。この殺害方法だと、少女をまったく傷のつかないフィギュアにできる。いや、少女の体には無数の傷があったではないか、という反論があるかも知れないが、それこそが犯人の異常性。少女を水死させることで無傷の状態でフィギュア化し、思いのまま傷つけるのは、自分でなければ気がすまなかったはずなのだ。

 まさにそこには、人間としての対話も心の動きもまったくない、無機質なモノしか存在しない。そんな犯人がつかまったところで、その犯人に両親の悲しみ、世間の怒りが通じるだろうか。

 報道する側も無機質なフィギュアになったようなむなしさばかりが襲ってくる。

(日刊スポーツ・大阪エリア版「大谷昭宏フラッシュアップ」平成161123日掲載)

 

 

 

引用

http://homepage2.nifty.com/otani-office/flashup/n041123.html