“山田方谷”財政再建への挑戦G
22年5月14日
守屋秀之
◎上下節約政策
・方谷は財政再建に伴う殖産興業政策を実施すると同時に嘉永3(1850)年に倹約令を出している。
一、
衣服は上下ともに綿織物を用い、絹布の使用を禁ずる。
一、
饗宴贈答はやむを得ざる外は禁ずる。
一、
奉行代官等、一切の貰い品も役席へ持ち出す。
一、
巡郷の役人へは、酒一滴も出すに及ばず。
方谷は、藩士の俸禄を減らすのに先立ち、自らの俸禄の大幅な削減を藩主に申し出ている管理職手当ての1割カットなどという生易しいものではない。元締役という藩の要職につきながら、方谷の俸禄は中下級武士程度であったという。
権力を奪われた譜代の家臣にとっては、方谷よりも高い俸禄を得ていることでかろうじてそのプライドが維持されており、ひいてはその反発を緩衝する役割も果たしていた。
この倹約令は、当時の役人たちの常識であった賄賂や酒、御馳走を全面的に禁止したものである。この背景には、武士というだけで役得を受け取る態度に、農民として苦労した方谷は許せなかったのかもしれない。
俸禄をカットされた上に、役得までも禁止したやり方に対する方谷への反発はひとしお大きく、方谷暗殺の噂がまことしやかに流れていた。
暗殺の噂が出たことや、開墾を奨励したこともあり、方谷は一時、城下から、はるか離れた土地で、自らも開墾し、役人たちの強烈な反発に対応した。
以上の「上下共々質素倹約」というのが、藩財政を立て直すための基本理念の一つであった。藩主勝静も改革にあたっては率先して倹約の範を示し、木綿の衣類を着て粗末な食事をしたという。
➞この倹約令は、主として中級以上の武士と豪農、豪商を対象としている。下級武士や一般の民百姓は、これ以上の生活を既に余儀なくされており、今更倹約もなかったのである。上から下までの倹約をうたいながら、実際の対象を中級以上の者に置いたことが、この倹約令の実効性が確保されたことにつながっている。このことから方谷の施策の基本である領民第一主義が窺える。
参考文献
野島 透『山田方谷に学ぶ財政改革』(2002)明徳出版社
小野晋也『山田方谷の思想』(2006)中経出版