“山田方谷”財政再建への挑戦F

 

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                                 守屋秀之

 

3.藩札刷新政策~其の参・山田方谷一世一代のパフォーマンス~

・嘉永5年(1852)、方谷が回収した藩札は、481110の藩札と未使用の5匁札230190匁(3836両・約24億円)、総額711300匁(11,855両・約72億円)にも上った(これは備中松山藩財政の約16%に当たる。現在の国家財政に当てはめれば約13兆円に相当)。方谷は、このような大量の藩札を大観衆の面前で一挙に焼却した。いわゆる『悪貨焼却』(悪貨駆逐)施策である。両替期間の3年間が過ぎた9月に高梁川河川敷にて行われ、朝の8時から始まって夕方の4時までかかったという、藩政改革の一大パフォーマンスである。このパフォーマンスには事前に高梁川河川敷に大観衆を集めるという大キャンペーンがしかれた。娯楽の少なかった当時、多くの農民が朝から弁当持参で見物したという一大パフォーマンスだった。

 先に大阪の銀主たちに藩財政の粉飾決算の帳簿、備中松山藩5万石が実は2万石にも満たないものであったことを公開し、藩の威信は地に落ちている。この藩札の兌換を実施することは、藩政改革のただならぬ決意を内外に表明するとともに、藩の威信を回復するためにも早急に取り組む必要があったのである。

 その後、殖産興業で得た巨額の利益を準備金にして、新たな藩札を3種類(五匁札、十匁札、百匁札)大々的に発行した。「永銭」と呼ばれたものである。先の一大パフォーマンスの効果もあって、新たな藩札は抜群の信用を勝ち得て、他藩の領内にまでも広く流通するようになったという。

永銭の流通量が増えることは、備中松山藩の金庫に両替準備金である正貨が蓄積するということであり、殖産興業による巨額の利益とも相まって、方谷が棚上げにしてもらっていた600億(10万両)もの借金を当初の約束より遥かに速いペースで返済することができたのである。わずか8年の間に10万両の借金は、10万両の蓄財へと姿を変えた。

 

 

 

参考文献

野島 透『山田方谷に学ぶ財政改革』(2002)明徳出版社

小野晋也『山田方谷の思想』(2006)中経出版