“山田方谷”財政再建への挑戦E

 

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                                守屋秀之

 

2.藩札刷新政策~其の二~

・当時の備中松山藩は一匁札と五匁札の2種類の藩札を発行していた。しかし、財政が破綻しかけていたため藩札の兌換準備金にも手をつけ、準備金が底をついていた。それにもかかわらず、方谷が取締役に就任する前の天保年間(18301844年)に大量の五匁札を発行していた。こうなるとこの五匁札はただの不換紙幣同然である。通貨というよりも、約束手形のようなものになっていた。倒産同然の「貧乏板倉」の藩札は、ニセ札が出回るなど、全く信用のないものであった。

 方谷は、『余は我藩財政につき、過半の力を藩札の運用に用いたり』と述べているように、財政再建にあったては藩札の信用回復を重視していた。改革に着手すると同時に、3年間という期限を切って、この世から蛇蝎のごとく嫌われていた紙屑同然の藩札を貨幣に交換するとのお触れを出した。殖産興業の設備投資資金をやりくりするだけでも大変だった財政状況の中で、このような思い切った通貨政策を実施した。回収された五匁札は、481110匁(8,019両・約8億)にも上った(当時の備中松山藩の通常の財政規模の2割に近い大変な額)。

 藩政改革の命取りになり兼ねない危険をはらんだこの藩札回収をこんな時期にやらなくても財政再建のめどが立ってからでよい、と考えるのが常識的だろう。たとえするにしても、デノミ的な新札の発行で急場を凌ぐのが一般的だろう。

 それをあえて実行に移したのは、藩札と交換し、市中に出回ったお金は必ず次の経済の芽を育む、といった方谷の経済理念や人々が社会的不安に駆られて必要以上に引き締めると、流通がストップし、経済が停滞し、崩壊するという経済学の鉄則を熟知していたからである。

 人々の不安を取り除くには、通貨の信用力を回復し、藩の威信を取り戻す以外にないということを理解し、実行に移したのである。

 

 

 

参考文献

野島 透『山田方谷に学ぶ財政改革』明徳出版社

小野晋也『山田方谷の思想』中経出版