“山田方谷”財政再建への挑戦C
22年2月15日
守屋秀之
4.「産業振興策」の展開〜其の三〜
◎経費節減!大阪蔵屋敷を廃止せよ!
・蔵屋敷・・・諸藩の大名が現金を入手するために年貢米を運んで貯蔵する倉庫付の屋敷のことである。
●当時の大阪は日本最大の米市場であり、その中でも堂島の米相場が全国の米相場となっていた。
●当時の状況
・経済について絶対の自信を持っていた大阪商人と違って算盤勘定に疎い武士は、蔵米を蔵元と呼ばれた商人に任せっきりであり、蔵役人たちは、蔵元との遊興にふけっていただけであった。蔵元は、米相場をうまく利用し、秋の収穫時期に相場を下げて蔵米を安く買い取り、その後相場を上げて、濡れ手で粟のように儲けていた。この蔵屋敷の維持費が年間約6億円(1000両)かかっていた。
そこで方谷は、大阪蔵屋敷を廃止し、蔵を備中松山藩内に移してそこで米を保管し、堂島の米市場の動向に左右されず平時には最も有利なときに有利な市場で米や特産品(備中ブランド品)を販売し、現金を入手する方法に改めた。
➞これにより年間18億円(3000両)から36億円(6000両)の利益が上がった。蔵屋敷の廃止で出た余剰と合わせると24億円(4000両)から42億円(7000両)の利益が上がった。(この蔵米は膨大な借金の担保に押さえられていたものである。) |
また、蔵屋敷を廃止したことのより藩内に年貢米を貯蔵するための蔵が必要となったが、方谷はそれを藩内40ヵ所に貯倉を設置することで対応した。この貯倉は、飢饉のときは飢えた民・百姓に援助米を与えるための義倉としての機能も果たした。大阪蔵屋敷の廃止政策は、一石二鳥どころか三鳥・四鳥の効果を上げた。
参考文献
小野晋也『山田方谷の思想』中経出版
野島 透『山田方谷に学ぶ財政改革』明徳出版社