“山田方谷”財政再建への挑戦P

 

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                                   守屋秀之

◎軍制改革3〜長州藩と山田方谷の関係〜

結果

・さらに、山田方谷は、安政2年(1855)に、植原六郎左衛門を招き、水泡の打砲を玉島沖で演習したほか、城下の辻巻に水泳場を開き、60歳以下の藩士全員に神伝流の水泳術を習わせている。

 安政5年(1858)、文武の奨励に努めた備中松山藩の劇的な藩政改革の噂を聞きつけて、長州藩の吉田松陰門下の俊英久坂玄瑞が視察に訪れている。その際、高梁川の桔梗河原での農兵隊(里正隊)の演習に出くわした。たった5万石の小藩であるはずの備中松山藩の夥しいほどの軍隊の数に息をのんだという。その軍隊は最新式の銃砲を装備し、号令に従って整然と動き、その訓練されきった西洋銃陣に「長州の銃陣遠く及ぶところにあらず」と感嘆し、長州の敗北を意識したという。その上、久坂玄瑞に追い討ちをかけたのが、里正隊が正規の武士の軍隊ではなく、農民で組織されたものであるという事実であった。

 久坂玄瑞が備中松山藩を視察した安政5年(1858)から6年後の文久3年(1863)、高杉晋作が「奇兵隊」を組織した。(ちなみに、久坂玄瑞と高杉晋作は、吉田松陰の松下村塾の二傑といわれた。)幕末に活躍した高杉晋作の「奇兵隊」のモデルになったのが、方谷率いる「里正隊」であったということは余り知られていない。また、長岡藩の河井継之助が率いる近代的軍隊は、河井が方谷の元にいるとき、この「里正隊」から学んだともいわれている。

 幕末、備中松山藩が朝敵として攻撃されそうになったとき、攻撃する征討軍も、松山藩の「里正隊」の強さを恐れ、なかなか手を出せなかったという。

 以上のように、農民や庶民を巻き込んだ山田方谷の教育改革・軍制改革は、身分制度にとらわれることなく、多くの有能な人材を輩出し、それがまた藩政改革の推進につながったのではないだろうか。

神伝流・・・伊予大洲藩藩士主馬光尚が大成した古式泳法。津山藩士植原銃朗が日本遊泳会設立。扇足の泳ぎが基本であり、現在、津山に19世宗今村龍三を置き、東京、岡山、広島などで指導されている。

参考文献

野島 透『山田方谷に学ぶ財政改革』(2002)明徳出版社

小野晋也『山田方谷の思想』(2006)中経出版

参考資料

山田方谷マニアックス http://yamadahoukoku.com/