“山田方谷”財政再建への挑戦O

 

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                                   守屋秀之

 

◎軍制改革2

〇経過

・備中松山藩は、領地が山間部にあり、かつ、東西は数里にすぎないものの、南北は20里近くもあった。そのため、国境の防備は特に重要であった。しかし、藩が内陸山間部にあったためか、藩士たちは、日常、外圧の脅威にさらされることが少なく、危機感にも乏しかった。また、兵法を知らない学者である方谷に兵法を教わるのは片腹痛いとの思いが強い藩士たちが多く、方谷の西洋式砲術や銃陣の採用には藩士の多くが乗り気でなく、西洋銃陣とは横並びの兵が銃を持ち指揮官の指揮の元一斉に攻撃するという軍隊編成であり、「一対一、正々堂々」といった日本古来の戦の方法になれていた武士にとってはとうてい受け入れられるものではなかった。

 しかし、方谷はそんな藩士たちの反発を逆手に取り、手薄な藩士たちの守備を補うため、方谷が新たに考え出したのが「里正隊」である。当時、領民のうち約8割は農民であった。圧倒的多数の農民を兵力に率いれて富国強兵を図ったのである。まさに、逆境が新しい発想を生んだのである。

 方谷は、嘉永5年(1852)に領内60余りの村の村長・庄屋の内、身体壮健な者を選んで銃術と剣術を習わせ、厳しい訓練を行った。彼らには、帯刀を許し「里正隊」と称した。農兵による新たな軍隊組織の試みである。なお、このような組織としては、高杉晋作の「奇兵隊」が有名であるが、「里正隊」はそれよりもおよそ10年早く編成されていたのである。

 この「里正隊」の教育・指導のもとに、領内の猟師や一般農民の中からも身体壮健なものを集め、西洋式砲術や銃陣の訓練を行い、国境の防備の一部を担わせた。この「里正隊」が、幕末の動乱期に備中松山藩の防備に重要な役割を果たしたことは言うまでもない。

 

 

参考文献

野島 透『山田方谷に学ぶ財政改革』(2002)明徳出版社

小野晋也『山田方谷の思想』(2006)中経出版

参考資料

山田方谷マニアックス http://yamadahoukoku.com/