“山田方谷”財政再建への挑戦N
22年7月9日
守屋秀之
◎軍制改革1
○背景
・藩主が初めて備中松山藩に入封した弘化元年(1844)頃、日本は、大きな転換期に差しかかっていた。方谷が備中松山藩の元締役(総理大臣)になった頃には、すでにアヘン戦争が勃発、中国が敗戦するなど欧米列強の影がちらほらと見え隠れする時期であった。そんな世界情勢の中、世界の列強諸国が競って新たな市場である日本に目を向けようとしていた。中でもフランスが、琉球に船を送り通商を求めてきたほか、オランダは、長崎を軍艦で訪れ幕府に開国を求めてきた。当時、鎖国を国の第一政策とし、安眠をむさぼってきた徳川幕藩体制は、社会経済構造の根底からの変革をいやおうなく迫られるといった窮地に追い込まれつつあった。
こうした社会情勢の中で、藩主は、士気を高め列強進出による惰弱の風を一掃するために、文武奨励の号令をかけたのである。方谷は、藩主の強い信念を背景に、「文武は車の両輪である」という立場に立ち、学問の奨励だけでなく武道の奨励にも力を尽くした。しかし、備中松山藩は人口5万人前後の小藩であり、藩内の軍事力である士族は全人口中の5%前後に過ぎず、これは薩摩藩の20分の1と余りにも頼りない。そこで方谷は、これからの時代には、西洋式の新しい砲術の修習や近代的な銃陣の研究及び軍制の改革がぜし必要であるとして、弘化4年(1847)に高弟の三島中州を伴い、約一ヶ月間、洋学を学んでいた津山藩を訪れた。津山藩で、砲術と銃陣の大要について学んでいる。
帰藩後、早速大砲2門を鋳造し、新西洋式砲術及び銃陣を備中松山藩に伝授した。これが、備中松山藩における軍制改革の始まりとなった。
参考文献
野島 透『山田方谷に学ぶ財政改革』(2002)明徳出版社
小野晋也『山田方谷の思想』(2006)中経出版
参考資料
山田方谷マニアックス