“山田方谷”財政再建への挑戦⑫
22年6月11日
守屋秀之
◎教育改革①
・方谷は、庶民教育のための学校設立にも力を注いだ。方谷が有終館(備中松山藩の藩校)の学頭に就任した天保7(1836)年には、備中松山藩の教育施設といえるものは、藩士の子弟を対象とした有終館と江戸藩邸学問所のわずか2ヵ所のみであった。
まず方谷は、庶民教育の重要性を説き、野山地区(現、
河井継之助は旅日記「塵壺」の中で農民・商人が平気で難しい学問を学んでいることに驚嘆している。また、他藩からの来訪者は後を絶たず、秋月悌次郎も、河井継之助と時を同じくして方谷のもとを訪れている。
また、方谷は明治維新後、大久保利通等からの異例の新政府入閣を断って、備前岡山藩の藩校である閑谷学校を再建すると同時に、明親館、温知館など岡山各地で子弟教育も行った。この閑谷学校からは、大原美術館を設立した実業家、大原孫三郎もでている。このためか、現在も、岡山県は日本有数の教育県となっている。
参考文献
野島 透『山田方谷に学ぶ財政改革』(2002)明徳出版社
小野晋也『山田方谷の思想』(2006)中経出版