“山田方谷”財政再建への挑戦⑫

 

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                                   守屋秀之

 

◎教育改革①

・方谷は、庶民教育のための学校設立にも力を注いだ。方谷が有終館(備中松山藩の藩校)の学頭に就任した天保71836)年には、備中松山藩の教育施設といえるものは、藩士の子弟を対象とした有終館と江戸藩邸学問所のわずか2ヵ所のみであった。

 まず方谷は、庶民教育の重要性を説き、野山地区(現、上房郡賀陽町宮地付近)に「学問所」を設けたほか、鍛冶町、八田部地区、玉島地区に「教諭所」を設置した。この他、家塾13ヵ所、寺子屋62ヵ所を開講するなど、教育施設の充実ぶりは、備前藩等の近隣の大藩をはるかに凌ぐものであった。「学問所」「教諭所」では、有終館から会頭が交代で出講し、助教には民間から学芸に秀でたものを登用した。また、優秀な生徒には賞を与え、さらには士分に登用し、役人に抜擢したので、向学に燃えた子弟が集まった。

 河井継之助は旅日記「塵壺」の中で農民・商人が平気で難しい学問を学んでいることに驚嘆している。また、他藩からの来訪者は後を絶たず、秋月悌次郎も、河井継之助と時を同じくして方谷のもとを訪れている。

 また、方谷は明治維新後、大久保利通等からの異例の新政府入閣を断って、備前岡山藩の藩校である閑谷学校を再建すると同時に、明親館、温知館など岡山各地で子弟教育も行った。この閑谷学校からは、大原美術館を設立した実業家、大原孫三郎もでている。このためか、現在も、岡山県は日本有数の教育県となっている。

 

 

参考文献

野島 透『山田方谷に学ぶ財政改革』(2002)明徳出版社

小野晋也『山田方谷の思想』(2006)中経出版