“山田方谷”財政再建への挑戦I

                                 

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                                   守屋秀之

 

◎民政刷新改革A〜上下ともに富む・内容と効果〜

○内容

「国利民福」を根本においた士民撫育、このような方針をもとに実施した具体的な民政刷新策の内容は次のようなものであった。

一、賄賂を戒め、賭博を禁じた。

庄屋・富農・豪商が個人的に権力者に謁見して、賄賂を贈る悪習があったため、方谷は、庄屋といえども役所以外での面談を禁止した。また、賭博が横行したため、これを禁止し、禁を破る者があれば、片鬢や眉などを剃り落とすという厳罰に処している。

一、盗賊の取締りを厳しくし、奢侈を禁じて風俗を正すとともに、「寄場」と称する懲役場を設けた。

精選した“盗賊掛”を置き、探索・逮捕を厳重にした。また、重罪のものは、これまでどおり獄舎に収容したが、軽罪の者は、更生させるための施設「寄場」において感化善導を加えて改悛の情のある者は放免した。

一、領内に40ヵ所の貯倉を設け、水害や干ばつなどの、凶年に備えて民心を安定させた。

貧しい村には担当者を通じて米や金を与えた。庄屋で三代以上の旧家で困窮する者には、米70俵を無利子で貸し与え、10年後に返納させた。また、嘉永61853)年、備中松山藩は干害(日照り)にみまわれたが、方谷は、飢えた農民たちの救済のため40ヵ所の貯倉を開き、米を配っている。このため藩内では餓死者がでず、農民からは「生き神様」といわれた。

こぼれ話

明治元(1868)年217日に、高梁市川面村において一揆が起こった。一揆に襲われそうになった庄屋岡本家は機転を利かし、大事なものを長持ちに入れ、そのふたに「山田方谷」と墨書きした張り紙をしておいたところ、まじないはてき面、荒れ狂った一揆の人たちも、この長持には誰一人として触れるものはいなかったという。

 

参考文献

野島 透『山田方谷に学ぶ財政改革』(2002)明徳出版社

小野晋也『山田方谷の思想』(2006)中経出版