山田方谷の財政改革に学ぶ国家形成論
守屋秀之
目次
T.始めに
U.七大政策
1.産業振興策
2.負債整理政策
3.藩札刷新政策
4.上下節約政策
5.民政刷新改革
6.教育改革
7.軍制改革
V.“方谷革命”としての藩政改革の考察
W.思想的観点から見る政治論と人生観
X.終わりに
T.始めに
混迷を極めている世界各国の政治情勢に興味を持ち、歴史好きということもあり江戸時代当時の藩の運営方法を研究することにした。
そのために岡山県の備中松山藩(現、
U.七大政策
1.産業振興策
山田方谷は当時としては珍しかった米には頼らず、「産業」を興して総額10万両もの借金の返済を目指し、「産業振興策」を展開した。
まず、最初に行なったのは、大ヒット商品を開発して借金返済を目指した事である。これは、備中領内で取れる砂鉄を使って、当時の人口の80%を占める農家に目をつけ「備中鍬」という農具の新商品開発に着手した。農家出身ならではのアイディアである。この「備中鍬」の開発の背景には藩直営で鉱山を経営するという所謂、方谷が藩政改革の柱とした公共事業がある。そもそも備中松山藩は中国山脈を有しているが、その山中からは良質の砂鉄がとれた。それを利用して製鉄業を盛んにしようとした。
そのために、方谷は、鉱山開発事業を藩の直営とし、さらに高梁川の川沿いに大規模な製鉄工場を建設した。もちろん、そこで働くのは備中松山藩の領民たちなので、この新規事業が成功すれば領民たちも潤うことになる。まさに今でいう失業者救済の公共事業だったわけである。
それもただ鉄を作るというだけではなく、鉄器、農具、釘などのように生活に密着していて流通量が見込まれ、なおかつ換金しやすいものへの製品化を進めたわけである。この「備中鍬」は、三本の大きなつめを持ったホークのような鍬で、従来の鍬に比べて、土を掘り返すのに便利な鍬である。従来品に比べて作業効率がよく、今でもよく目にする備中鍬は備中松山藩が商品として生産することで、日本各地に販売され借金を返済できるほどの大ヒット商品となった。
また、タバコ、柚餅子、漆、お茶、高級和紙、そうめんなどの特産品を開発し、その特産品に「備中」というネーミングを前面に売り出した「備中ブランド」ともいえる地域ブランド品が生み出された。これを一括して扱ったのが、方谷が設置した「撫育方」である。
これは現在の独立行政法人組織のようなものだが、藩内で生産する米以外のすべての生産物を管理し、一種の専売制を導入し、流通、販売を藩の直営とした。つまり、商業が低く見られていたこの時代、藩そのものを会社組織に変えたのである。そして、方谷はそれらの商品を「快風丸」という自前の輸送船で直接送り込んだ。そのために江戸に「板倉江戸屋敷」という今でいうアンテナショップともいうべき部署も設置した。そこで「備中ブランド品」を直接販売する方法を確立した。
当時、日本の流通網は大阪を中心に成り立っていた。特に、西日本で生産されたものは大阪の問屋に集まり、そこから全国へと流通していくのが一般的であった。ところが方谷は、そんな商習慣に囚われず、大阪を無視して海路を使って百万人の消費者がいる巨大市場である江戸へと直接「備中ブランド品」を送り、次々と売りさばいていった。
つまり、大消費地である江戸に商品を直接持っていったことによりムダを削減し、中間マージンを排除した。方谷はまったく新規に流通ルートを開拓し、新しいビジネススタイルを確立し、莫大な利益を藩にもたらした。そういう意味では、方谷は江戸末期に現れた、まさにベンチャー事業の旗手だったと言える。
2.負債整理政策
次に方谷が行なったのは負債整理である。当時備中松山藩が背負っていた負債は10万両である。そこで方谷は、この10万両の負債を返済するために、まず、その実情を調べ上げることから始めた。藩の財政状況の実態調査を進めていくにつれ愕然としてしまうような現実が浮き彫りになった。
まず、五万石とされていた備中松山藩の実際の石高が19300石にすぎなかったという事実である。2万石弱しかない税収(歳入)にもかかわらず、毎年5万石の歳出は財政を圧迫させ続けていた。事実、備中松山藩は、嘉永二年の財政収支では、総収入42800両に対して78500両の支出をしていた。しかも、定期収入(年貢米)に対する公債依存度は71%にも上っていた。
その結果、大阪の銀主(両替商)を中心に、10万両(約600億)もの莫大な借金を抱えることになった。つまり、それまでの元締役は藩の財政収支を粉飾したうえで、借金を重ねていた。
そこで方谷は、誰も思いつかなかった大阪蔵屋敷を廃止するという誰もが度肝を抜く政策をやった。
当時の大阪は日本最大の米市場であり、その中でも堂島の米相場が全国の米相場となっていた。当時の武士は、経済について絶対の自信を持っていた大阪商人たちと違い、算盤勘定に疎い武士は蔵元と呼ばれた商人に蔵米任せっきりであり、蔵役人たちはというと蔵元との遊興にふけっていただけであった。蔵元は米相場をうまく利用し、秋の収穫時期に相場を下げて蔵米を安く買い取り、その後相場を上げて濡れ手で粟のように儲けていた。この蔵屋敷の維持費が年間約1000両(6億)もかかっていた。まさに時代劇でみるような状況がそこにはあった。
そこで方谷は大阪蔵屋敷を廃止し、蔵を松山藩内に移しそこで米を保管した。堂島の米市場の動向に相場が左右されないようにし、平時には最も有利な市場で米や特産品(備中ブランド品)を販売し、現金を入手する方法に改めた。これにより年間3000両(18億)から6000両(36億)の利益が上がった。これと蔵屋敷の廃止で出た余剰と合わせると4000両(24億)から7000両(42億)の利益が上がった。(この蔵米は膨大な借金の担保に押さえられていたものである。)
また、蔵屋敷を廃止したことにより藩内に年貢米を貯蔵するための蔵が必要となったが、方谷はそれを藩内40ヶ所に貯倉を設置することで対応した。この貯倉は、飢饉の際には飢えた民、百姓に援助米を与えるための義倉としての機能も果たした。大阪蔵屋敷廃止政策は、一石二鳥どころか三鳥、四鳥もの効果を上げた。
3.藩札刷新政策
備中松山藩の状況を説明する前に、江戸の状況から説明したい。江戸時代の貨幣の種類は、金貨、銀貨、銅貨など3種類からなっており、その貨幣の鋳造は幕府の独占事業と定められていた。しかし、その貨幣と交換できる兌換紙幣(藩札)を発行することは各藩にも認められていた。実際の発行については、正貨に打歩して藩札との交換を奨励し(例えば、金9両に対して額面10両の藩札と交換)、逆に藩札を正貨と交換する場合には、発行時以上に打歩する(額面10両と藩札8両と交換)という手法をとっていた。
当時の藩札と正貨との交換レートは、赤穂藩の60%が最もよいもので、8代将軍の吉宗が生まれる前の紀州藩が宝永4年(1707)に発行したものなどは20%であった。(藩札と正貨との交換レートの差は、現在発行されている公債と同じになる。)
このような形態で発行された藩札は、市中に実際の通貨量以上の通貨を流通させることを可能にし、また通貨の流通をスムーズにさせ、経済の活性化をもたらした。しかし、これは経済政策の観点から発行されたものではなかった。
当時の徳川幕藩体制は、本来米の生産力を基盤とする農本主義の経済体制(以下、米本位経済)であった。しかし、商業の発展に伴い経済の中心は米から貨幣にとって変わられようとしていた。貨幣流通の発展により、米の生産力をはるかに超えた規模に経済が拡大したのである。
従来の米本位経済による米の生産力と貨幣主義の経済体制(以下、金本位経済)に取って代わられたことにより生じた実際の経済規模とのギャップを埋めるための方策が、年貢の強化又は銀主からの借金等である。しかし、藩札の発行はそれらと同列の赤字財政補填のための窮余の一策でしかなかった。
当時の備中松山藩は一匁札と五匁札の2種類の藩札を発行していた。しかし、財政が破綻しかけていたため藩札の兌換準備金にも手をつけ、準備金は底をついていた。それにも関わらず、方谷が元締役に就任する前の天保年間(1830〜1844年)には大量の五匁札を発行していた。そのため、財政の悪化とともに乱発されていた備中松山藩の藩札はすっかり信用を失い、資産価値ゼロのただの紙くずと化していた。そしてそれは通貨というよりも、約束手形のようなものになっていて、倒産同然の「貧乏板倉」と呼ばれていたほどの備中松山藩の藩札は、ニセ札が出回るほど全く信用のないものになっていた。
方谷が、『余は我が藩財政につき、過半の力を藩札の運用に用いたり』と述べているように、財政再建にあたって世は米本位経済から金本位経済に変わりつつあると確信していたため、藩札の信用回復を重視していた。改革に着手すると同時に、3年間を期限にしてこの世から蛇蝎のように嫌われていた、まさに紙屑同然の藩札を貨幣に交換するとのお触れを出した。殖産興業のための設備投資資金をやりくりするだけでも大変だった財政状況の中で、なぜこのような奇手とも言える思い切った通貨政策を方谷は実施したのだろうか。
その謎を解くためには、山田方谷が行なった一世一代のパフォ−マンスについて理解する必要がある。
嘉永5年(1852)、方谷が回収した藩札の総額は、481貫110匁の藩札と未使用の5匁札230貫190匁(計3836両、約24億)で総額711貫300匁(11,855両、約720億)にも上った。(これは備中松山藩財政の約16%にあたる。現在の国家財政に当てはめれば約13兆円に相当する)。方谷は、このような大量の藩札を大観衆の面前で一挙に焼却した。いわゆる『悪貨焼却』施策である。
両替期間の3年間が過ぎた同年9月5日、近似川原にて行われ、藩札を正貨で買い取り、回収した藩札と未使用の藩札を河原に積み上げ、それをすべて焼き捨てた。これは、朝8時から始まって夕方の4時までかかったという、藩政改革のなかでも最大の一大パフォ−マンスである。このパフォ−マンスには、事前に近似川原に大観衆を集めるという大キャンぺ−ンがしかれた。娯楽の少なかった当時、多くの農民が朝から弁当持参で見物したというほどの一大イベントだった。
先述したように大阪の銀主たちに藩財政の粉飾決算の帳簿を備中松山藩の5万石が実は2万石に満たないものであったことを公開し、藩の威信は地に落ちている。この藩札の兌換を実施することで、藩政改革のただならぬ決意を内外に表明するとともに、藩の威信を回復するためにも早急に取り組む必要があったのである。
その後、殖産興業で得た巨額の利益を準備金として新たな藩札を3種類(5匁札、10匁札、100匁札)を大々的に発行した。「永銭」と呼ばれたものである。先の一大パフォ−マンスの効果もあって、新たな藩札、永銭は抜群の信用を勝ち得、他藩の領内にまでも流通するようになった。
もちろん、そのとき旧藩札のすべてを買い取る資金があったわけではない。方谷が焼き捨てた旧藩札はそれまで流通していた藩札のおよそ半分だったともいわれているが、それを焼き捨てることで「永銭」に信用を与え、より多くの「永銭」を発行することで財政改革のための資金調達に充てることができた。つまり、近似川原での一大パフォ−マンスとそれを通じた「永銭」の発行は、方谷改革(方谷革命)の要石だった。
「永銭」の流通量が増えるということは、備中松山藩の金庫に両替準備金である正貨が蓄積するということであり、殖産興業による巨額の利益とも相まって、方谷が大阪の銀主たちに棚上げにしてもらっていた10万両(600億)もの借金を、当初の約束より遥かに速いペ−スで返済することができた。
ここで、時期的なことに言及すると、藩政改革の命取りになり兼ねない危険をはらんだこの藩札回収を、なにも上記のような時期にやらなくても財政再建のめどが立ってからでも遅くない、と考えるのが一般的であろう。たとえするにしても、デノミ的な新札の発行で急場を凌ぐのが一般的であろう。それをあえてこの時期に実行に移したのは、藩札と交換し市中に出回ったお金は必ず次の経済の芽を育む、といった方谷の経済理念や人々が社会的不安に駆られて必要以上に引き締めると流通がストップし、経済は停滞し、最後に崩壊するという経済学の鉄則を熟知していたからではないだろうか。人々の不安を取り除くためには、通貨の信用力を回復し、藩の威信を取り戻す以外にないことを方谷は理解し、実行に移したわけである。
4.上下節約政策
上下節約政策を実施するにあたり方谷は、窮乏する藩財政を立て直すために、上つまり武士・役人、又は下つまり農民・百姓にも節約を呼びかけた。また、方谷は前述した殖産興業政策を実施すると同時に嘉永3年(1850)年に倹約令を出している。その内容は以下のとおりである。
・衣服は上下ともに綿織物を用い、絹布の使用を禁ずる
・かんざしの使用も禁ずる
・饗宴贈答はやむを得ざる外は禁ずる。
・奉行代官等、一切の貰い品も役席へ持ち出す
・巡郷の役人へは、酒の一滴も出すに及ばず
方谷は、何年間か自らが率先して、藩士の俸禄も減らしている。藩士の俸禄を減らすのに先立ち、自らの俸禄の大幅な削減を、藩主である板倉勝静に申し出ている。それは、現代で行なわれている管理職手当ての1割カットなどという生易しいものではなく、元締役という要職につきながら、方谷の俸禄は中下級武士程度であったという。
これは、方谷が独断で実施したことであったのでもちろん家臣からの反発はあった。当時の家臣、特に権力を奪われた譜代の家臣にとっては、方谷よりも高い俸禄を得ていることでかろうじてそのプライドが維持されており、ひいてはその反発を緩衝する役割も果たしていた。
この倹約令の実施は、当時の役人たちの常識であった賄賂や酒、御馳走を全面的に禁止したものである。この政策を実施した背景には、武士というだけで役得を受け取る態度に、農民出身で苦労の絶えなかった方谷は、許せなかったのかもしれない。
俸禄をカットされた上に、役得までも禁止したまさに独裁者ともいうべき方谷のやり方に対する反発はひとしお大きく、方谷暗殺の噂がまことしやかに流れていた。
暗殺の噂が出たことや、開墾も奨励したこともあり、方谷は一時、城下から遥か離れた土地で、自らも開墾し役人たちの強烈な反発に対応した。
以上の「上下共々質素倹約」というのが、藩財政を立て直すための基本理念の一つであった。この改革にあたっては藩主、板倉勝静も率先して倹約の範を示し、綿織物の衣服を着て、飲食については一汁一菜の粗末な食事をしたという。
この倹約令は、主として中級以上の武士と豪農・豪商を対象としていた。これ以外の下級武士や一般の民、百姓はこれ以上の生活をすでに余儀なくされており、彼らにとっては今更倹約も何もなかったのである。上から下までの倹約をうたいながら、実際の対象を中級以上の者に限って置いたことが、この倹約令の実効性が確保されたことにつながっている。このことからも方谷の施策の基本である領民第一主義という信念をうかがい知ることが出来る。
5.民政刷新政策
方谷が藩政を担当し、改革を行なうにあっての終始一貫して貫いた方針は、上下つまり武士も民もともに富むといった「士民撫育」であった。産業振興、藩札刷新などの改革はいずれも一時の耐乏によって将来の藩士領民の生活を安定させ、富国強兵を図るためであった。まさに「国利民福」を根本においた「士民撫育」であった。
この基本方針は、嘉永4(1851)年4月8日の藩財政に関する上申書である「借財整理着手及結果又其後方略上申」の中で、方谷が、「財政再建は、金銭の取り扱いばかり考えていても決して成就できるものではない。国政から町民・市民までをきちんとやって、それができるものである。政治と財政は車の両輪である。」と述べていることから理解できる。
また、安政2(1855)年の上申書である「撫育の急務上申」においては、「藩主の天職は、藩士並びに百姓、町民を撫育することにあります。まず急務とするところは、藩士の借り上米を戻すこと、百姓の年貢を減らすこと、町人には金融の便宜をはかり交易を盛んにすること、この3ヵ条であります。」と述べ、更にまた「撫育方と名づける訳は、撫育を主として人民の利益を図り、そのうちから自然に上の利益も生じ、その利益によってお勝手もしのぎやすくなり、それがまた撫育になるのです。」と述べているように、方谷の藩政改革の目標は上下ともに富むということであったことが理解できる。
続いて、前述したような「国利民福」を根本においた士民撫育、このような方針をもとに実施した具体的な民政刷新政策の内容に迫っていきたい。
・賄賂を戒め、賭博を禁じた。
これは、庄屋・富農・豪商が個人的に権力者に謁見して、賄賂を贈る悪習があったため、方谷は庄屋といえども役所以外での面談を禁止した。また、賭博が横行したため、これを禁止し、もし、禁を破る者があれば、片鬢や眉などを剃り落とすという当時の厳罰に処している。
・盗賊の取締りを厳しくし、奢侈を禁じて風俗を正すとともに、「寄場」という懲役場を設けた。
これは、精選した“盗賊掛”を置き、探索・逮捕を厳重にした。また、重罪の者は、これまで通り獄舎に収容したが、軽罪の者は、「寄場」という一種の更生施設において感化善導を加えて改悛の情のある者は放免した。
・領内に40ヵ所の貯倉を設け、水害や干ばつなどの凶年に備えて民心を安定させた。
これは、貧しい村には担当者を通して米や金を与えた。庄屋で三代以上の旧家で困窮する者には米700俵を無利子で貸し与え、10年後に返納させた。また、嘉永6年(1853)、備中松山藩は干ばつにみまわれたが、方谷は飢えた農民たちの救済のため40ヵ所の貯倉を開き、米を配っている。このため藩内では餓死者が出ず、農民からは「生き神様」と呼ばれ、藩民から絶大の人気を得た。
・道路を整備し、水利を通じさせた
狭い道路は、道路幅を広げた。また、川や溝のふさがっているとろは、川底をさらい通じさせた。中でも城下松山から賀陽郡種井村にいたる道路は松山従来の道路に関わらず狭かったので、安政6年(1859)に幅員を拡張して人馬の従来を便利にした。これのよって産業も大いに栄えた。
・城下と玉島、八田郡に「教諭所」を設置し庶民教育を施した
・「目安箱」を設置した
目安箱は8代将軍吉宗が享保6年(1721)庶民の意見を聞くために評定所の門前に設置したことに始まるが、備中松山藩でもこれを取り入れ、総門外の制札場に設置している。投書の仕方については、「政事向きより何事に寄らず存じ候事」を記入して投書することができた。
ここに、これらを裏付ける逸話がある。時は明治元年(1868)2月17日に、
以上のような具体的且つ厳格な民政の執行によって、賄賂などの悪習は一掃され、節約の風も大いに行われた。この結果備中松山藩は「昔に比べると夢のような安楽な土地になった。」といわれた。他領他藩の者は備中松山藩に視察に入ってその現状を知り、大いに見習うべきであると感じ入ったという。
6.教育改革
方谷は、庶民教育のための学校設立にも力を注いだ。方谷が有終館(備中松山判の藩校)の学頭に就任した天保7年(1836)には、備中松山藩の教育施設といえるものは、藩士の子弟を対象とした有終館と江戸藩邸学問所のわずか2ヵ所のみであった。
教育改革を実施するにあたり、まず方谷は庶民教育の重要性を説き、野山地区(現、
河井継之助は旅日記『塵壺』のなかで「農民・商人が難しい学問を学んでいることに驚嘆している」と記している。また、他藩からの来訪者は後を絶たず、秋月悌次郎も河井継之助と時を同じくして方谷のもとを訪れている。
また、方谷は明治維新後、大久保利通等からの異例の新政府入閣を断っている。そして、備前岡山藩の藩校である閑谷学校を再建すると同時に、「明親館」・「温知館」などの岡山各地で子弟教育も行なった。この閑谷学校からは、大原美術館を設立した実業家である大原孫三郎も輩出している。このためもあって、現在も岡山県は日本有数の教育県となっている。
ここで、大久保利通がいかに山田方谷の能力を買い、また信頼していたかが分かる逸話がある。
明治維新後、小田県(現・岡山県)の県令になった矢野光儀は、倉敷の豪商である林源十郎を伴い上京した際、時の内務大臣の大久保利通に対し、県の諸問題を報告した。
その時、大久保利通から「方谷を訪ねたか」と質問されたところ、矢野は「まだです」と答えた。すると大久保利通は不機嫌な表情をし、「小田県を治めなければならないのに山田翁に政治を問わないで何ができるか」と一喝した。矢野は大久保のもとをほうほうの体で立ち去り、山田翁に会った。
その後、矢野は再度大久保のもとを訪れ、県の報告書を手渡し、大久保に怒られそうになる前に、「方谷の草案です」と言ったところ、大久保はその場で報告書を読み終え、直ちに許可を与えたので、矢野は大久保の態度の豹変振りに仰天してしまったという。
さて、教育改革の成果について触れたい。
方谷の一番弟子で天正天皇の信望厚い侍講であった三島中洲は、明治維新後の西洋思想一辺倒に傾き始めた世の中を危惧し、方谷の助言に従い、日本(東洋)固有の儒教道徳の確立を目指し、明治10年(1877)10月に漢学塾二松学舎を設立した。
ちなみに、東京大学が開設されたのも明治10年である。当時二松学舎は、福沢諭吉の慶応義塾、中村敬宇の同人社と並んで明治三大塾と称された。
なお、漢学塾二松学舎は、その後二松学舎大学となり初代校長には山田方谷の孫である山田準がなっている。また二松学舎は、犬養毅(元首相)・中江兆民(思想家)・牧野伸顕(農商務大臣であり大久保利通の次男)・夏目漱石(作家)・嘉納治五郎(講道館創設)黒田清輝(洋画家)・平塚雷鳥(女性解放運動家)など、後の時代に影響を与えた人材を輩出している。また、昭和38年には吉田茂(元首相)が舎長に就任している。
7.軍制改革
方谷が軍制改革を実施した背景には、藩主・板倉勝静が初めて入封した弘化元年(1844)頃、日本が大きな転換期に差し掛かっていたということがある。
方谷が備中松山藩の元締役担った頃には、すでにアヘン戦争が勃発し中国が敗戦するなど欧米列強の影がちらほらと見え隠れする時期であった。そんな世界情勢の中、世界の列強諸国がこぞって新たな市場である日本に目を向けようとしていた。そんな列強の中でもフランスが琉球に船を送り通商を求めてきたほか、オランダは長崎を軍艦で訪れ幕府に開国を求めてきていた。当時、鎖国を国の第一政策とし、安眠をむさぼってきた徳川幕藩体制は、社会経済構造の根底からの変革をいやおうなく迫られるといった窮地に追い込まれつつあった。
こうした社会情勢の中で藩主は、士気を高め列強進出による惰弱の風を一掃するために、文武奨励の号令をかけたのである。方谷は、藩主の強い信念を背景に「文武は車の両輪である」という立場に立ち、学問の奨励だけではなく武道の奨励にも力を尽くした。しかし、備中松山藩は人口5万人前後の小藩であり、藩内の軍事力である士族は全人口中の5%前後にすぎず、これは薩摩藩の20分の1と余りに頼りなかった。そこで方谷は、これからの時代には、西洋式の新しい砲術の修習や近代的な銃陣の研究及び軍制の改革が是非必要であるとして、弘化4年(1847)に高弟の三島中洲を伴い、約1ヶ月間、洋学を学んでいた津山藩を訪れている。その津山藩で砲術と銃陣の大要について学んだ。
帰藩後、早速大砲2門を鋳造し、新西洋式砲術及び銃陣を備中松山藩に伝授している。これが、備中松山藩における軍制改革の始まりとなった。
備中松山藩は領地が山間部にあり、且つ東西は数里にすぎないものの南北は20里近くもあった。そのため、国境の防備は特に重要であった。しかし、藩が内陸山間部にあったためもあってか、藩士たちは日常、外圧の脅威にさらされることが少なく、危機感にも乏しかった。また、兵法を知らない学者である方谷に兵法を教わることを快く思わない藩士たちが多く、方谷の新西洋式砲術や銃陣の採用には藩士の多くが乗り気ではなかった。さらに、新西洋式銃陣とは横並びの兵が銃を持ち指揮官の指揮の下、一斉攻撃するという軍隊編成であったため、「一対一、正々堂々」といった日本古来の戦の方法に慣れていた武士にとってはとうてい受け入れられるものではなかった。
そんな藩士たちの反発を逆手に取り、手薄な藩士たちの守備を補うために方谷が新たに考え出したのが「里正隊」である。当時、領民の内約8割は農民であった。圧倒的多数の農民を兵力に引き入れて富国強兵を図った。まさに、逆境が新たな発想を生んだ。
方谷は、嘉永5年(1852)に領内の60余りの村の村長や庄屋の内、身体壮健な者を選んで銃術と剣術を習わせ、厳しい訓練を行った。彼らには、当時としては有り得ない帯刀を許し、「里正隊」と称した。
この「里正隊」の教育・指導のもとに、国境の防備の一部を担わせた。この「里正隊」が幕末の動乱期に備中松山藩の防備に重要な役割を果たしたことはいうまでもない。
さらに山田方谷は、安政2年(1855)に、植原六郎左衛門を招き、水泡の打砲を玉島沖で演習させたほか、城下の辻巻に水泳場を開き、60歳以下の藩士たち全員に神伝流の水泳術を習わせている。
安政5年(1855)、文武の奨励に努めた備中松山藩の劇的な藩政改革の噂を聞きつけて、長州藩の吉田松陰門下の俊英・久坂玄瑞が備中松山藩を視察に訪れている。その際、高梁川の桔梗河原での農兵隊(里正隊)の演習に出くわした。たった5万石の小藩であるはずの備中松山藩のおびただしいほどの軍隊の数に息を呑んだという。その軍隊は最新式の銃砲を装備し、号令に従って整然と動き、その訓練されきった西洋銃陣に「長州の銃陣遠く及ぶところに非ず」と感嘆し、長州の敗北を意識したという。その上、久坂玄瑞に追い討ちをかけたのが、里正隊が正規の武士で編成された軍隊ではなく農民で組織された軍隊であったという事実であった。
久坂玄瑞が備中松山藩を視察した安政5年(1858)から6年後の文久3年(1863)、高杉晋作が「奇兵隊」を組織した。幕末に活躍した高杉晋作の「奇兵隊」のモデルになったのが、方谷率いる「里正隊」であったということは余り知られていない。また、長岡藩の河井継之助が率いる近代的軍隊は、河井が方谷の元にいるとき、この「里正隊」から学んだともいわれている。
幕末、備中松山藩が朝敵として攻撃されそうになったとき、攻撃する征討軍も松山藩の「里正隊」の強さを恐れ、なかなか手を出せなかったという。
以上のように、農民や庶民を巻き込んだ山田方谷の教育・軍制改革は身分制度にとらわれることなく、これからの時代を担った多くの有能な人材を輩出した。それがまた、藩政改革の推進につながったと考えられる。
V.“方谷革命”としての藩政改革の考察
山田方谷による備中松山藩の藩政改革を経済的観点から考察していくにあたりまず注目すべき点は、方谷の行った道路や河川の改修といったいわゆる「公共投資」にある。これらは産業振興策を実施するための産業基盤を整えるだけではなく、また新たな利潤を生み出した。
その公共投資も“公共投資のための無駄な公共投資”ではなく、ケインズの言う乗数効果が期待でき、新たな拡大再生産が行なわれるものが真の公共投資といえる、ということであろう。このように考えたのは、方谷自身が農民出身であったため、本当に国民に必要であり、産業振興を促進するための公共投資の重要さを肌で知っていたのではないだろうか、と考えられるからである。
また、組織的観点から考察していくと、建前では士農工商の身分制度を守りながら本音は身分と職務を分離して封建社会制度を根本から壊そうとする当時としては斬新で有り得ない革命であった、そういう姿が浮かび上がってくる。
経済的観点から考察していくために七大政策の一つである産業振興策を実施するのにあたり、作った会社組織について詳しく説明していきたい。
日本初の会社といえば坂本龍馬が作った亀山社中が有名であるが、備中松山藩にも会社組織が存在していた。
米本位経済を基本とする士農工商の身分制度でガチガチに固められた封建社会で、資本主義革命を果たすために方谷はまさに藩そのものを企業立国に仕立て上げようとした。方谷はひそかに、藩を本社部門・生産部門・物流部門から成る「働くシステム集団」つまり、現在の会社組織そっくりの企業立国を構築した。
備中松山藩の人口はおよそ5万人、うち武士階級が5%の2500人、大半は農民で80%の4万人、商工人が15%の7500人から成っている。また、扶養家族を除いた就業人口は、武士が500名、農民は2万人、商工あわせた2500名の計23000名である。山田方谷は、この就業人口23000人をそっくり独占企業の従業員に組み入れた。
戦略中枢部門である本社は今まで通り藩庁が担当した。しかし、この藩庁こそが世襲身分で固められた武士世界そのものであり、無能な輩が我が物顔で上位を占めている。太平の惰眠を貪ってきた士族は、無為徒食の自覚もなく、もって生まれた身分と禄高にしがみついて寄生虫のごとき搾取集団となっている。この「非生産者集団」をなんとかしなければ伝統の身分制度を壊すといった構造改革は成し遂げられない。そこで方谷は、抜き打ちの身分否定をいきなり実行したが、目だった反乱もなく成功している。不思議な方谷行政の謎の一つである。
生産部門には農民と全ての工職人を配属し、商人は販売部門に。これから大きな役割を果たすことになる物流部門には農工商人から人選して人材を送り込む。また、実務部門である生産・販売・物流の3部門を統括するための本部である「撫育局」を新設した。
これが山田方谷がつくった新組織「働くシステム集団」の骨組みである。また、これは身分制度でガチガチに固められた封建社会を根底から打ち壊した資本主義革命であり、藩をあげての新体制の幕開けであった。
ここで、方谷がなぜ備中松山藩を企業立国に仕立て上げたのかということについて資本主義というレンズを通してみていきたい。また、なぜ就業者23000人を藩企業の従業員にしなければならなかったのか、その理由と時代背景について考えたい。
資本主義とは、産業革命以後の工業生産と結びついたヨーロッパで生まれた新しい経済体制のことである。しかしこれは狭義の不正確な固定概念にすぎない。資本主義の本来の姿とは、西欧諸国の産業革命によって生まれた大量生産・大量消費・大量廃棄の近代資本主義である。
資本主義は、東洋・西洋を問わず古代から存在していた。生活に必要なものを物々交換する市場に代わり、貨幣を使った交換が始まったとき、金本位経済が生まれた。そして貨幣そのものを増やそうとする金儲けのゲ−ムが始まれば、貨幣を使う市場ではマネ−ゲ−ムが登場する。広義の意味では、この流れが資本主義である。陽明学の師であった山田方谷は儒教から資本主義を学んだ。「カネ」の流れが軽やかに滞りなく行なわれれば経済は黙っていても発展するという資本主義の根本原理を理解していたと思われる。これが山田方谷の財政改革の謎を解明する最大のキ−ポイントである。
さて、ここで備中松山藩の藩政改革を成功に導いた山田方谷の資本主義の概念、特に時代背景を江戸と備中松山藩に分けて触れたい。
江戸時代の経済の基礎は、もともと自給自足の自然経済を営む事が前提の米本位経済である。農民から職人や商人になることが自由だったように、武士から農民や商人になることも自由だったのは江戸時代以前のことだった。その例として、一農民から太閤にまでなった豊臣秀吉の出世物語はあまりにも有名な話である。だが、1600年を境目として職業移転の自由は失われた。関が原の戦いで徳川家康が天下を制すると同時に、家康は士農工商の序列を定めて固定化し、人民をがっちり身分制度に縛り付けてしまったからである。支配下級である武士を最上級に位置づけ、被支配階級の民を農工商とした。特に農民には土地を離れることを許さなかった。
江戸時代になって商業はますます発展した。そうなると当然、貨幣経済が旺盛になる。伝統の米本位経済は圧倒的な金本位経済に翻弄された。このことは、米本位経済を基盤とする支配階級である武士の力の衰弱と、武士に代わって“カネ”を握り経済力を持った商人の台頭を意味していた。
8代将軍徳川吉宗のブレ−ンの一人であった荻生徂徠は「商人主となりて、武士は客なり」と述べ、その主客転倒ぶりを嘆いている。このことから、この勢力逆転は、すでに18世紀の8代将軍吉宗の頃には明白な事実になっていたことがわかる。
日本の武士道では、銭勘定と算盤を徹底的に軽蔑するように教えられてきた。この世で唯一肥え、太り続ける商人たちを野放しにしたまま、経済オンチの武士たちは実情を理解せず、ひたすら過酷極まりない年貢の取立てを強要した。従来の4公6民の税率は5公5民となり、やがて6公4民の枠さえ超えていくことになった。
それは備中松山藩においても例外ではない。それどころか、“貧乏板倉”と蔑まれた藩の金庫は空っぽとなり、武士まで減俸につぐ減俸で農民は限界を越えた年貢にあえぎ、生き残るための百姓一揆や逃散が起こった。
山田方谷の眼には、藩を“危篤状態”に陥らせた二つの患部がはっきりと映っていた。1つめは、備中松山藩内における極度の富の集中化である。隠然として台頭してきた資本主義によって、藩内の一握りの豪商に経済の実権が集中していた。二つめは、大阪の両替商や銀主や藩内の一握りの豪商から借りた10万両の借金であった。これは気の遠くなるような巨額の借金であり、返しても返しても元金と利子はカ−ドロ−ン地獄そのままに増殖を続けていった。
前述した通り、方谷は大阪の両替商と交渉して、10万両の借金の一時棚上げ、担保にとられていた蔵屋敷の年貢米を取り返すという信じられない快挙をやってのけた。その上、帰国するやいなや、独裁者の一面を見せ始めた。膨大な冥加金の重税が課せられたというのならまだ救いがある。抵抗する間もない一瞬の強権をもって、一握りの豪商たちは藩への貸付金は凍結され、その全商権を剥奪されてしまった。“雲中の飛竜”・“備中聖人”とまで言われた聖人君主は、覚悟の独裁者に豹変した。しかし、この独裁者への変貌ぶりは私利私欲のためではなく藩政改革を必ず成功させる覚悟を持った変貌だった。そして、まさに“方谷革命”とも言える一刀両断の無血革命が備中松山藩を駆け抜けたのである。
W.思想的観点から見る政治論
山田方谷は、領民たちから“雲中の飛竜”と呼ばれていた。普段は空に浮かぶ大きな雲の中に隠れている。だからどこにいるかわからない。ところが、いざ何か問題が起こったり、何とかしてほしいという事態が起こったりしたときには、たちまちその姿を現し、その問題を解決してくれる、まさに“雲の中から現れ自由自在に飛び回る竜”のような人だというわけである。
例えば、財政の問題が目の前にあれば財政家になる。軍事の問題があれば軍事の専門家になる。教育の場合には、教育者になる。とにもかくにも、その人の専門がどこにあるか分からない。しかし、世の中に問題が起こればそこへ現れ、竜のごとき立派な活躍をして去っていく。まさに、自由奔放な活躍ぶりを見せた。
その方谷の本質とはいったい何だったのか。それは、彼が真の陽明学者だったことが大きな要因であると考えられる。
陽明学者・山田方谷が最も重視したものが「良知」だった。
陽明学では、人間には経験・教育などをしなくても、生まれながらに備わっている知恵や能力があり、それは宇宙的理法の根源であり、行為の規範だとしている。それが「良知」である。
つまり、宇宙の理法や倫理は、そもそも人間の心の中にあるものだから、心を離れてはいけない。だから、行為は理だけを対象とする知識を前提としない。むしろ知は、心の真情の表れである行為を通じて形成されることになる。言い換えるなら、認識は、経験を通して現実化されるということとなるわけで、陽明学ではこれを「知行合一」と称している。そして、内心の良知に従う行為を絶対的な善とし、この「良知」を全面的に発揮することを「致良知」と呼び、それを日常的に発現・錬成すべきであると教えている。
方谷は、この「良知」というものに基づく知恵というものを、きちんと自ら育んでいたに違いない。そして、世の中の心理というものを胸の中にしっかりと抱えていたからからこそ、どんな問題に対しても的確に対応できる生きかたができたのではないだろうか。
また、山田方谷が行なった七大政策を、方谷はそれらを一つひとつ順を追って片付けていったわけではない。各々に長期的見直しを行ないながら、しかも根幹である藩民の教育という面を重視して、全部を同時並行に、一気に遂行した。その結果、政策は各々に相互に強くリンクしながら、相乗効果を高めて、個々だけでなく藩という一つの共同体全体で問題解決に向かっていった。
さらに農民をはじめとする領民たちの信頼をかちえるために民政刷新の政策も着々と遂行した。いくら、財政改革を行おうとしても、領民の支持がなければ成功するはずもない。藩領に住む民を大切にするという、方谷の大前提がなければ、また、領民の方谷に対する信頼感がなければ、いくら藩首脳が旗を振ったところで、領民が自分の領地を放りだしてまで、民兵組織・「里正隊」に参加するようなことはなかったであろう。
結局、全てが一体になって動いたからこそ、備中松山藩の財政改革は成功したのである。
つまり、単に歳入をいかに増やすか、歳出をいかに減らすかという算盤勘定だけではなく、全体の政策、つまり、国のあり方というものを展望しながら、その中に財政問題を位置づけて、相互の関連の中に解決策を力強く導き出し、動かしていく、ということを考えなければならない。
しかし、目の前にある問題を、一面だけで捉えて、しかも、表面的にその解決を行なうということならば、すぐに目に見える形で結果が出るかもしれない。しかもその結果に対して、評価はしてもらえるだろう。しかし、長期的・多面的・根本的な取り組みにおいては、それに対する評価が極めて困難であるということである。
だから、社会の中の限られた資源を使って、何を優先して行なえばよいかと判断することがなかなか出来ない。また、周りの人の同意を取り付けることも難しい。さらに、様々な要素を結び合わせて総合的な効果を生み出そうとするのも容易ではない。
そこで必要なのは、権威のある判断基準である。おそらく財政再建に立ち向かう備中松山藩では、藩主である板倉勝静の山田方谷への絶対的な信頼感が、その権威を方谷に与えたのではないのだろうか。そして、山田方谷自身の、他の追随を許さない深く広い見識と何ものにも動じない心が、その力を強めたのではないか。また、その揺るがない魂と領民を思いやる心が藩政改革を成功に導いたと考えられる。
X.終わりに
混迷を極める世界情勢の中、山田方谷の示したかった指針は、“誠意”“義”という姿勢が生み出す信頼関係の構築だったのではないのだろうか。その根拠となる良い例が負債整理政策である。前述の通り備中間や山藩は、2万石にも満たない小藩だったにもかかわらず、5万石と称して、藩の体面を守るために大きな借金を背負うことになった。この藩財政を立て直すために、方谷がまず行なったのは、粉飾決算だらけの財政の内容を洗いざらい明らかにすることだった。言うまでもなく、藩内から大きな反対、又は暗殺の噂までもあったわけだが、方谷は、それにひるまず、藩の実情を包み隠さず明らかにした。その結果、大阪の両替商や銀主たちは藩の実情をすべてさらけ出した方谷の“誠意”又は“義”に対して、10万両もの借金の一時棚上げを了承した。こういう事実から考察してみると、“誠意を持った人と人との信頼関係”なくして財政再建はできないことが分かる。
現在も、惰眠を貪り続け、目先の利益でしか行動しない為政者はいる。しかし、こんな混沌とした世の中だからこそ、国民全員が今ある問題を直視し、その実態をよく知り、自分の頭でよく考えるというチャンスを与えられているのだと思う。
山田方谷の財政再建を調べていくにつれ、これからの世の中は、われわれ国民がただの傍観者ではなく民主主義国家の主権者であるという誇りと“誠意”“義”を持って共に考え、共に動かしていかなければならない。そして、この“誠意”“義”こそ現代を生き抜くための我々に対するメッセ−ジだと考えられる。
参考文献
小野晋也『山田方谷の思想』(2006)中経出版
野島 透『山田方谷に学ぶ財政改革』(2002)明徳出版社
矢吹邦彦『ケインズに先駆けた日本人−山田方谷外伝−』(1998)明徳出版社
参考資料
山田方谷マニアックス http://yamadahoukoku.com/
ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/
山田方谷 http://www.2e.biglobe.ne.jp/fujimoto/taka/yamada.htm