新田開発をめぐる事件簿B

                                      211113

                                                                                   守屋秀之

 

◎ケース3:児島内海の開発と国境論争

  ○備中国都宇郡の妹尾村や早島村の地先に広がる干潟の開発について

  ・干潟や海面を利用した漁業がさかんで、新開地の肥料としても活用されていた。開発される新田の帰属とともに、用益権の行方も問題になる。

   ・万治元年(1658

児島方の農民が突然備中地方に牓示を打つ。正保の国絵図が参照され、備中方の主張を認めることで一応の解決をみている。

   ・享保年間(17161736

津田永忠の子の梶坂佐四朗による新田目論見に端を発する。双方の反対によって不調に終わると、幕府はこの地を享保の新田開発令に基づく「公儀新田」の対象地に指定される。幕府がこの地を「公儀新田」として開発しようとするたび、地元の住民や領主と紛争が起きることになる。

・寛延年間(17481753)と宝暦年間(17511764

幕府による裁許の結果備中方の干潟に対する用益権は認められたが、備前との国境は当時の備中方新田と堤際され、内海は一円備前領となった。

   幕府裁許の結果は、大きな絵図に記され、老中などが裏書して双方に渡される。備中方の裁判当事者は、妹尾・箕島・早島の各村々だった。この三ヶ村ではこの裁判絵図を一年ごとに持ち回りで管理していたが、受け渡しの日には各村々の村役人が寄り合い、絵図の虫干しも行われていた。

   国境論争が裁許された後も、地元の村々の間や幕府と岡山藩との間で交渉が繰り返され、この地に新田が開発されたのは文政年間(18181830)のことだった。

 

 

 参考資料

 池田家文庫等貴重資料展

 http://lib/okayama-u.ac.jp/ikeda/exhibition/2002/#3