新田開発をめぐる事件簿A

 

                                         2111月6日

                                                                                           守屋秀之

 

 

◎ケース2:浅口郡における開発

○事件の経緯

 ・岡山藩と備中松山藩とが競って開発をしていた。しかし、その後、岡山藩が開発した村々は鴨方藩領に、松山藩が開発した阿賀崎新田村は幕府領になる。

  これらの新田開発をめぐる村々の共通の問題は、上流から流れる土砂が玉島新町の北に設けられた裏川に堆積し、排水が十分に行えないことだった。しかも裏川にできた中州(六町洲・八町洲)を阿賀崎新田村が開発したために、裏川の遊水地としての機能はさらに低下した。この問題をめぐっては、元文2年(1737)・寛政が元年(1789)・文化9年(1812)の三度にわたって幕府評定所での争論になっている。

 

○結果

 一度目と三度目とは内済、二度目は幕府の裁許となり、双方の主張を取り入れた痛み分けのような解決となっている。

 

○その後

 ・現・笠原市域に含まれる今立川河口の入り江は、浅口郡と小田郡との境目になっていた。その浅口郡側の西大島村は鴨方藩領、小田郡側の横島村は幕府領であった。この入り江に大阪の商人が出資して新田が開発されることになったのだが、完成後の帰属をめぐって争論となる。享保12年(1727)に郡境(村境)が定められ、完成後の新田は、浅口郡側は西大島新田、小田郡側は横島入江新田に分けられた。

 

 

参考資料

池田家文庫等貴重資料展

http://lib.okayama-u.ac.jp/ikeda/exhibition/2002/#3