新田開発をめぐる事件簿@

                                                                        211030

                                                                             守屋秀之

 

 

ケース1

◎福田新田開発

 ・享保元年(1716)児島の福田村他4ヶ村が開発を計画する。これを知った備中方は、古田に障りがあるとして、連島はじめ18ヶ村が共同して幕府に開発の中止を訴えた。

 

 この裁判は、一旦は備中方の勝訴になる。しかし、その後岡山藩が巻き返しを図る。このとき活躍したのが、元幕府代官の手代であった岡山藩家臣の本郷沢右衛門である。彼は、かつての人脈を駆使して幕府勘定方の役人に働きかけ、再吟味では児島方に有利な結果をもたらしている。これを受けて開発したのが、福田古新田である。

 

 ・この裁判の後も、児島方と備中方とは東松山川の中洲開発をめぐって何度も争っている。児島内海をめぐる紛争が興除新田の開発によって終結した文政年間になると、幕府がこの地に強力に介入するようになり、「公儀新田」として開発されるようになる。これによって、国境と福田村地内境とを確定する作業が行われる。これには双方の村人や領主役人が立会い、さらに開発後の権利をめぐる交渉が何度も繰り返されてきた。この後、暫く児島郡柳田村篠井汲五平の請負で開発が始まる。これが福田新田である。

 

 

 

池田家文庫貴重資料展

http://lib.okayama-u.ac.jp/ikeda/exhibition.2002/#3