方 谷 革 命 D
〜山田方谷とケインズ革命〜
22年10月15日
守屋秀之
◎時代背景〜備中松山藩篇@〜
備中松山藩においても例外ではない。それどころか、貧乏板倉と蔑まれた藩の金庫は空っぽとなり、武士まで減俸につぐ減俸で、農民は限界を越えた年貢にあえぎ、生き残るための百姓一揆や逃散がさけられなかった。
山田方谷の眼には、藩を危篤状態に陥らせた二つの患部がはっきりと映っていた。一つめは、備中松山藩内における極度の富の集中化である。隠然として台頭してきた資本主義によって、藩内のほんの一握りの豪商に経済の実権が集中していた。二つめは、大阪の両替商や金主、藩内の一握りの豪商から借りた十万両の借金のことだった。気の遠くなるような巨額の借金であり、返しても返しても元金と利子はカードローン地獄そのままに増殖を続けていくことだった。
方谷は大阪の両替商と交渉して、十万両の借金の一時棚上げ、担保にとられていた蔵屋敷の年貢米を取り返すという信じられない快挙をやってのけたうえ、帰国するやいなや、独裁者の一面を見せ始めた。膨大な冥加金の重税が課せられたというのなら、まだ救いがある。抵抗する間もない一瞬の強権をもって、一握りの豪商たちは藩への貸付金を凍結され、その全商権を剥奪されてしっまたのである。備中聖人とまでいわれた聖人君子は、突如として覚悟の独裁者に豹変し、まさに一刀両断の無血革命が備中松山藩を駆け抜けたのである。
※逃散・・・家も田畑も捨てて他郷に逃げる
※冥加金・・・旅籠や質屋などの株仲間が、商売を独占する御礼の気持ちを表す政治献金の意味合いで課せられた商人への税金。自発的な献金のため納める側が金額を決めていた。
参考文献
野島 透『山田方谷に学ぶ財政改革』(2002)明徳出版社
矢吹邦彦『ケインズに先駆けた日本人―山田方谷外伝―』(1998)明徳出版社
小野晋也『山田方谷の思想』(2006)中経出版