内部と外部異なる二つの顔を持つ

                   弘前城

                                21717

                                               守屋秀之

 

◎歴史

・慶長八年(一六〇三)津軽為信は、高岡の地に城下町建設を計画し、新城築城する。本格的築城は慶長十五年(一六一〇)に開始。わずか一年ほどで五重天守以下八基の櫓や、数多くの大型櫓門を持つ城郭中心部が完成。この異例の築城工事の速さは、領外からの職人集団の召集もあったが、移転または自らの城の建物群を解体して運び込み、新城の部材として再利用するといったリサイクルが最大の要因だったと言われている。

 

◎外観

 ○堀側

 ・外郭に面する二面(東面と南面)は、矢狭間のみとし、東面に三二個、南面に二七個が配置されている。この矢狭間の上下には長押方が使われている。

 ・一階、二階に切妻出窓を配置し、一階のみ石落を設けている。

 

 ○本丸側

 ・破風がなく、連子窓連続させる極めて単純な構造になっている。

  →堀側の外郭二面が矢狭間のみであったための処置で採光不足を補う目的。

 ・外観端部に各階一個の矢狭間を配置している。唯一の防御施設。

 →江戸後期の櫓にこのような狭間や石落は不必要なので、御三階櫓を一層天守らしくみせるための工夫。

・屋根は、本瓦型の木型に鉄板を張った銅瓦葺になっている。

→本瓦は、寒暖の差が激しい地域だと割れやヒビが発生しやすいため。

 (例:松前城、高島城、金沢城も金属瓦。ただし、金沢城は鉛瓦。)

※天守以外に、三基の櫓と五基の城門が残っている。この門は、いずれも石垣を持たない特徴的な総二階の櫓門となっていた。

 

 

参考文献「厳選日本名城探訪ガイド」学研