津田永忠と新田開発B
21年10月23日
守屋秀之
◎沖新田の開発(児島湾最後の開発)
・延宝元年(1673)に起こった大洪水から農村部を救うためにつくられた。
・元禄5年(1692)、南北4km・東西5kmの総延長6518間余りの潮留め堤をつくる。
・潮留め堤に大型樋門20基を連結させた高度な排水機構の唐樋を考案し、設置している。総面積は1918町歩余りに及び、工期はわずか6ヶ月という驚異的な速さで完成させている。
➞幸島・沖新田では一反を単位として、一反あたり30匁の夫役銀を徴収。これにより、小規模な農民が多数入植することが可能になった。またこれは、富裕層に限らず、より幅広い階層に配慮した政策だと言える。
◎百間川と地域総合開発計画
・岡山城下を洪水の被害から守る目的で、増水時に旭川を上流で放水するために計画されたもの。最初の工事は寛文9年(1669)に開始されていて、発案者は熊沢蕃山だったといわれている。その後この放水路は、低湿地の多かった上道郡の放水路としても利用されることになり、貞享3年から4年にかけて(1686〜87)築堤と水路の開削が行われる。これによって岡山城の北の開発が可能となり、ここに後楽園が造営される。
つまり、百間川の築造によって、城下の洪水対策・上道郡の悪水処理・後楽園の築堤・沖新田の用水利用といった様々な課題の解決が図られ、倉安川の運河としての活用とあわせて、まさに地域総合開発計画といえるものだった。そして、沖新田の完成はこの地域総合開発計画を締めくくるものであった。
参考資料
池田家文庫等貴重資料展
http://www.lib.okayama.-u.ac.jp/ikeda/exhibition/2002/#3
岡山平野鳥瞰記
http://suido-ishizue.jp/nihon/07/04.html