江戸時代の職業事情④
22年11月12日
守屋秀之
【江戸時代にもあった人材派遣業「桂庵」】~其の弐~
●人材派遣業「桂庵」の実態
・桂庵に働き口を求めて集まった人々の多くは、地方から江戸に出てきた人たちだった。当時江戸に知人もツテもない人が単独で働き口を探すのは至難の業であった。また、商家も大店になればなるほど人材選びに厳しく、なんらかの縁故や紹介がなければ奉公人にはなれなかった。つまり、桂庵に集まる人々は職そのものだけでなく、身元保証をも必要としていた。
桂庵ではそういった人々の身元保証を引き受けた上で、まずは求職者を自分の店の二階に住まわせて江戸の風習や言葉遣いを教育、奉公先を見つけては、三ヵ月半、半年などの契約で奉公人として派遣。宿の場合、半年契約で約70~75匁。派遣先(奉公先)から3~4%の斡旋料を受け取っていた。さらに万が一契約期間中にクビになった奉公人については、次の奉公先が見つかるまで面倒をみていたということなので、現代の人材派遣会社にも引けをとらないほどの充実したサービスを提供していたといえる。
桂庵の扱う数ヶ月単位の派遣以外に、もっと短い期間の派遣、いわゆる日雇い派遣を専門に扱っていた業者もあった。そういった業者は「日傭座」と呼ばれ、主に土木工事や駕籠かきなどの肉体労働を伴う仕事に人材を派遣していた。「桂庵」とは違い、事前教育やアフターフォローを必要とせず、とりあえずその日の労働をまかなう「体力優先」の仕事が日傭座の主な派遣先だった。日傭座は労働者の得る賃金の中から一部を徴収。例えば、とび職の場合、日傭賃は約170文~216文、ここから日傭座が14文~16文を手数料として受け取っていたという記録が残っている。
こうして大名屋敷や商家の下働きから、土木工事、髪結い、米引きにいたるまで実に様々な職が派遣労働者よって担われ、彼らは重要な労働力として江戸の社会を支えていた。
しかし奉公人の出奔などのトラブルや、桂庵や日傭座自体による不正が後を絶たなかったことも実情だった。頭を痛めた幕府は業者に組合の結成を促すなどして取締りを強化したが、根本的な解決には至らず、トラブルは絶えなかったようである。現代の「派遣切り」や「二重派遣」などなにかと問題視される人材派遣事情となにやら通じるものがある。
参考資料
http://hirose-gawa.web.infoseek.co.jp/mame/kahei.html
http://kosaido.com/column/column_detail14/