平成21109

中田英寿(18

104417 樋川 朋也

日本帰国後

日本帰国後、中田の移籍先をめぐる状況は、目まぐるしく変化していた。

中田獲得を決断していたアストン・ビラは、契約の前にどうしても直接プレーを見たいと申し入れてきた。監督が、中田へ練習に参加してほしい、現時点でのプレーを今一度確認したい、と言った。アストン・ビラはもう一度バーミンガムに出向いてくれないかと中田へ要請した。渡英が難しければ、クラブのスタッフが来日するとも告げてきた。

しかし、中田は再びイギリスへ行くことは出来ないと考えていた。チームを離れ、ヨーロッパへ向かうことが知れればまた騒動になる。アストン・ビラのスタッフが来日したとしても大事になることは間違いなかった。帰国後、思想団体の中田への非難もさらに激しさを増していた。テストを受けることに異存はなかったが、自分を取り巻く環境を考え躊躇した。結局、ゴードンを通じ、テストを受ける余裕がないことを伝えた。

アストン・ビラのテストを断った直後、新たなオファーがきた。移籍リストに名前があったフランスのマルセイユが、714日になって中田と正式な交渉に入りたいと通達してきた。ワールドカップ以降、交渉話が立ち消えとなっていたが、7月に入り外国人選手を放出し、巨額の移籍金を手にしたことから、再度中田側へ交渉を求め連絡してきた。イタリアのボローニャ、スコットランドのセルティックからも同様のメッセージが届いていた。

ペルージャは、中田を主軸にしたチームを作るため、選手を急遽補強したと伝えてきた。

717日、中田と次原はミーティングを行った。次原は多数の有力チームからの誘いに揺れていた。中田にとって最善の選択を迷っていた。ところが、中田はすぐに結論を出した。ボローニャとセルティックはペルージャに行った時に切った。マルセイユは遅すぎた。アストン・ビラは練習にも参加できないし今回は難しい。

移籍先はペルージャに決まった。胡散臭さがあったが、チームは中田のサッカーを必要としている。中田獲得に力を注ぎこむくらいだからレギュラーも間違いない。セリエA1シーズン戦って体にイタリアのサッカーを叩き込み、それからステップアップする。ヨーロッパへ行っても1つのクラブで終わるつもりはない。必ず実力でもっと大きな移籍を勝ち取る。このような理由で中田はペルージャ行きを決断した。

 

 

 

 

 

参考書籍

小松成美 (1999) 『中田英寿 鼓動』 幻冬舎