平成21年10月2日
中田英寿(17)
104‐417 樋川 朋也
2.ペルージャ移籍速報
1998年7月7日、共同通信が配信したニュースから、マスコミは中田のペルージャ移籍が決定したと報じた。中田所属事務所として次原のコメントも掲載された。それは中田の移籍を否定するものだったが、ほとんどのマスコミは中田の移籍決定と報じた。アレッサンドロが記者会見をすれば、事実は明らかにされるはずだった。
しかし、翌日のイタリアの新聞も、中田の移籍が本決まりであると伝えた。中田がセリエAでプレーすることを具体的に解説し、フォーメーション図まで載せる詳細な記事だった。
ペルージャで行われた緊急会見には、イタリアのプレスや日本のメディアが多数訪れた。アレッサンドロは、会見の前に移籍騒動の事情を説明したメモを記者たちに配布した。それには中田との移籍交渉が内定したわけではなく、進行中であると書かれていた。
だが、記者会見の中でアレッサンドロは、自ら用意したメモの内容を否定するようなことを発言した。契約交渉において障害は何もないと思っている。中田選手からは個人的に、最終的にはペルージャでプレーしたいと返事を貰っている。交渉には2ケ月の時間をかけてきた。サインはまだ貰っていないが、握手を交わした。日本人にとって握手はサインより神聖なものだと聞いている。これで契約はほぼ成立したと言える。あとは形式的な作業が残るだけだ。もし、日本のスポンサーから契約したいという話があれば、もちろん、それも積極的に考えたいと思う。
アレッサンドロはエージェントのゴードンと話した中田の移籍金や、年俸まで公開したうえで、日本のテレビ各局の個別インタビューにも答え、同じ内容を繰り返した。ベルマーレ平塚はペルージャから獲得の意志を伝えられたのは事実だが、その後のコメントは一切ないとコメントを発表し、次原は、契約が合意した事実はない、と反論するだけだった。
7月8日、中田、次原、ゴードンは最後のミーティングを行った。その中で、アレッサンドロの行動について解説した。彼のパフォーマンスは中田達からすれば滑稽に見える。しかし、マスコミを利用してデモンストレーションを重ね、既成事実を作り上げることで交渉をやりやすくしたいと考えている。たとえ彼の矛盾点を指摘しても認識が違っていたと簡単に言い逃れられる。
また、一度断ったボローニャも、どうしても交渉したいと言ってきた。これも含めて、帰国して2週間ほどでクラブを決め、契約を結ぶプランをたてていたが、活発化していた思想団体の抗議とあわせてその間の警備を厳重にしなければならなかった。
参考書籍
小松成美 (1999) 『中田英寿 鼓動』 幻冬舎