平成21年6月12日
中田英寿(9)
104-417 樋川 朋也
2.前園真聖の移籍の失敗(続き)
来日後、横浜フリューゲルスから発言も行動も規制されたセビージャのゼネラルマネージャーは、外出先の前園を捕まえ、必ずセビージャで結果を出せるプレイヤーだと信じている、とはっきり宣言した。
その言葉を聞き、スペイン行きの希望を固めていく前園に対し、クラブは移籍の要請があったことすら認めようとしなかった。
セビージャのゼネラルマネージャーが帰国した後、今度は次原がスペインへ行き、なんとか前園の夢を叶えようとした。セビージャ側も獲得に向け働きかけることを宣言した。
しかし、前園のセビージャへの移籍は、この後、混迷を極めた。両チームの意向は平行線をたどり、横浜側は移籍のオファーを受けた前園の相談にさえ応じなかった。アトランタ・オリンピックが終わっても状況は変わらなかった。興行収入やチームの成績を気に掛けた経営陣は前園の移籍に前向きになれなかった。
必要な戦力を手放したくないチームが、移籍を求めるクラブからの要請を撥ねつけ、聞く耳を持たないのは当然だ。だが、前園はスペイン行きを切望した。自分のサッカー人生を賭けて欧州でのプレーを望んだ。しかし、ついにクラブ側が彼の願いに耳を傾けることはなかった。
前園の希望を叶えようとした次原も、クラブ側と対立した。この時期、腹を割って相談できる相手は中田一人だった。
結局、この時点での移籍を諦めざるを得なかった前園は、クラブへの信頼を失い、モチベーションも下がった。海外移籍に関しての情報の開示や肖像権などに関しても、ことごとくクラブ側と衝突した。
Jリーグ一わがままな男と呼ばれるようになった前園がもう一度サッカーへの情熱を取り戻すには、もはや国内でもクラブを移る以外なかった。すっかり調子を落とした前園が、ヴェルディ川崎に移籍したのは九七年一月だった。
3.次原への中傷
九八年二月、ある週刊誌が次原を中傷する記事を掲載した。
その記事には、前園と中田にサッカー以外の仕事や人間関係を提供し、そのせいで前園の調子が落ち込んだと記されていた。
誤解を解こうとした中田が出版社へ電話を入れたら、あたかも独占インタビューのように掲載された。次原を庇う中田すらゴシップの当事者にされた。
参考書籍
小松成美 (1999) 『中田英寿 鼓動』 幻冬舎