平成21年5月29日
中田英寿(7)
104-417 樋川 朋也
1.次原悦子
一九六六年十一月十六日、東京に生まれた次原は、両親の離婚に伴い、高校生のときから母親の仕事を手伝うことになった。
離婚した次原の母親は、小さなPR会社を設立した。社員を雇う余裕がなかった母は、高校生の次原にも仕事を割り振った。都内の高校から小さなマンションの一室にある事務所へ直行し、制服からスーツに着替えてクライアントを回る生活を、次原は苦しいと思ったことがなかった。
仕事の成功は事業の拡大を呼び、次原の名前はPR業界やマスコミに広まっていった。仕事に没頭するあまり、取引先とやり合うこともあった。彼女の仕事の進め方を批判する者もいることを知った。
しかし、次原は、自分がマネージメントを手掛ける才能のためには、多少の苦難など乗り越えて突き進む強さを持っていた。彼女は、預かった人材には責任があるのだ、と自分に言い聞かせてきた。
2.次原悦子と前園真聖
次原が初めて観たサッカーは、横浜フリューゲルス時代の前園のゲームだった。鹿児島実業から横浜フリューゲルスに入団した前園が、念願だったアルゼンチンへの留学を果たし、その留学から帰国して間もなく、友人の紹介で彼に出会ったのだ。
前園は、まるでサッカーを知らない次原に、ワールドカップや、彼の英雄であるマラドーナの話をしてくれた。前園の教育を受けた次原は、サッカーが楽しく、世界中の人々が熱狂できる魔法のようなスポーツであることを知ったのだ。
十九歳の前園は、PR会社の代表でありマスコミの世界で十年も仕事を続けてきた次原とサッカー以外の仕事で代理人契約を結んだ。
それから三年後、アトランタ・オリンピック予選の途中、前園から紹介されたのが中田だった。サッカーで共通の感性を持ち得た前園と中田は、チームメイトとしてだけでなく、友人としても最も近しい存在になっていた。
前園は「ヒデもよろしくね」と気安く次原を頼った。次原は、前園が弟のように可愛がる中田とも契約を交わした。次原は、彼らの財務管理や契約についてのアドバイスを行うことになったのだ。彼女は、彼らの生活やいずれグラウンドを離れたときの進路にまで気を配っていた。
次原と前園や中田の家族を交えての交流は、それぞれの信頼をより深いものにしていった。
参考書籍
小松成美 (1999) 『中田英寿 鼓動』 幻冬舎