平成21424

中田英寿(2)

104-417  樋川朋也

1.        中田英寿の意識の変化

19982月に、イギリスのマネージメント会社からヨーロッパのチームへ移籍するつもりはないかと問われたとき、中田は条件が整えば考えると答えた。

Jリーグでプレーする選手の中には、欧州や南米のサッカーチームでプレーすることを夢だといって憚らない選手も少なくなかった。だが、中田はそうした思いを抱いたことが一度もなかった。

発展途上の日本のサッカー界にあって、日本人の憧れでもある海外のサッカーを選択肢のひとつと言い放つ中田は、ときに傲慢な選手に見えた。

だが、彼にはひとつの信念があった。それは、職業としてサッカーを選んだ。それで観衆を魅了できなければプロとは言えないというものだ。サッカーのために必要な条件と環境が整わなければ、最高のプレーを観衆に提供できるわけがない。海外のチームに移籍したって、自分が満足し、それを観に来ている観客が興奮できるようなプレーができなければ意味がない。それなら、Jリーグで勝つために戦ったほうが、ずっと真剣にサッカーを考えている。

そんな中田が、海外でプレーすることを意識したのは、ワールドカップのアジア地区最終予選を戦っているときだった。自分のサッカーを高めるために、今以上に厳しい環境が必要と考えた。

 

2.        ベルマーレ平塚

中田の個人代理人である次原は、中田の所属クラブであるベルマーレ平塚と、中田の移籍について交渉を行った。

平塚側にとって中田は必要不可欠な選手だ。平塚のサッカーは中田がいなければ成り立たない。チームの戦略はまったく機能しなくなる。日本代表選手として人気を博している中田を失えば、チーム力が大きく低下するばかりか、観客数にまで影響を与える。金銭には換えられない選手だ。

だが、チームのすべての者が、中田が海外でも通用すると信じていた。中田の才能は、Jリーグでは納まりきらない。欧州でプレーすることが中田のためであり、日本サッカーのためであると考えていた。

その結果、平塚は積極的に海外移籍を推し進めることはしない。だが、中田の移籍をクラブが潰すようなことは絶対にしないという立場をとった。

 

参考書籍

小松成美 (1999) 『中田英寿 鼓動』 幻冬舎