平成21417

中田英寿(1)

104-417  樋川 朋也

1.      コリン・ゴードン

19982月、ゴードンは初めて中田英寿という選手の名前を耳にした。ゴードンが契約を結んだイギリスのマネージメント会社が、中田の移籍をゴードンに任せたいと言ったのだ。

世界でもFIFA公認エージェントの資格を取得している者はおよそ600人しかいない。そのなかで、世界的にはまったく無名の日本人選手に係わっているエージェントは皆無に等しい。

ボスマン裁定が下された後、EU各国のクラブの外国人枠の多くは南米諸国の選手によって占められた。しかし南米のスーパースターたちは、数十億の移籍金を必要とする選手ばかりで、たやすく移籍を望めるわけではなかった。

そこで、空きができた外国人枠を有功に使うために、ワールドデビューを果たす前のいわゆる「掘り出しもの」を見つける必要があった。

日本はJリーグを発足させてから急激につけ、世界との距離を徐々に縮めているとイギリスでも評価されていた。ゴードンの所属するマネージメント会社は、日本には世界レベルで活躍できる選手がきっと存在する。探し当てた優秀な選手を、ヨーロッパヘ供給できれば、21世紀のサッカービジネスを先んずるのは必至だと考えた。

情報収集の結果、マネージメント会社は中田英寿に照準を絞り込んだ。そして、実際に移籍を手掛けるかどうかの判断がゴードンに託された。

ゴードンは中田に関する膨大なレポートとビデオでのプレー分析、日本で監督経験のあった友人の意見から、会社に対して、中田のヨーロッパへの移籍の意志の確認。意志があれば、スカウトやクラブの代理人への情報提供の開始。移籍交渉をワールドカップ開催期間中にまで延ばすことを提案した。

 

2.      次原悦子

1998221日、イギリスのマネージメント会社のスタッフが極秘で日本に渡り、中田のヨーロッパへの移籍の意志の有無を確認した。中田は条件が整えば海外への移籍も考えると言い、ヨーロッパでの中田の移籍活動が始まった。

中田サイドの窓口には、中田の個人代理人で、PR会社「サニーサイドアップ」社長の次原悦子が当たることとなった。

 

 

参考書籍

小松成美 (1999) 『中田英寿 鼓動』 幻冬舎