104−098

岡崎正尚

 

・共産主義独裁政権が殺害行為に与える影響・1

人は、特定の条件を与えられれば、人を殺すことは普段より容易となる。それゆえに、独裁政権はそうした状況を作り出そうと努力する。ならば、その政策の内、どのような要素が、殺人者の養成に寄与しているのだろうか。先ずは、共産党独裁政権を例にとって見てみたい。

 

1・既存の道徳の否定。新たな道徳の建設。

人命尊重、非暴力、といった、既存の道徳を徹底的に否定する。そして、都合の良い新しい道徳を打ち立てる。その根拠は、現在は今までと違い危機的な状況にある、新しい道徳が必要とされている、といった物だ。

例1

ボルシェヴィキによって1917年に設立された秘密警察チェーカーの初代長官、フェリックス・ジェルジンスキーは、1917年12月7日の会議で、以下のように発言した。

「同志諸君、どうか私が革命的正義の形態を探しているとは思わないでもらいたい。『正義』を行なうこと等、我々には用が無いのである!」

ジェルジンスキーのこうした発言には、レーニンの賛同があった。12月7日の会議では、チェーカーを縛る法律が布告される予定だったが、その様な物は結局布告されなかった。レーニンは、1918年春、以下のように演説している。

「もし投機を行なうものに対してテロを実行しないなら―――直ちに頭に弾丸を撃ち込まないなら―――我々は何一つやり遂げないで終わろう」

また、社会革命党議員とメンシェヴィキ議員の逮捕に抗議し、チェーカーの役割に疑問を投げかけ、「司法人民部員がなんの役に立つというんです?社会的皆殺し人民委員部と呼べば、この件はもう落着でしょう」と皮肉を言った左翼社会革命党の司法人民委員、シュテインベルグに対し、レーニンはこう答えている。

「すばらしい考えだ!まさに私はそう考えている。しかし残念にも、そう呼ぶことが出来ないのだ!」

因みに、シュテインベルグは1919年2月10日にチェーカーに逮捕され、拘禁された。

ウクライナのチェーカー長官、マルティン・ラツィスは、こう書いている。

「内戦期には成文法は無視される(略)内戦にはそれ特有の法があるのだ(略)階級的秩序に刃向かうものは誰であれ、剣によって滅ぼされることが明らかにされなければならない」

1918年8月30日、ペトログラード・チェーカー長官ウリツキーへの暗殺と、レーニンに対する暗殺未遂事件が起こった。翌朝のプラウダの記事は、以下の通りである。

「労働者諸君、我々がブルジョアジーを殲滅する時が来た。さもなければ君達は彼等によって殲滅されてしまうのだ」

内務人民委員ペトロフスキーは、赤色テロルの必要性の自覚が遅れていると、こう苦言を呈した。

「今やこの様な軟弱さ、この様な感傷に止めを刺すときである。(略)大衆テロルを実施する場合は、いかなる弱気もためらいも許されない」

1919年8月に発行されたキエフのチェーカーによる新聞、『赤い剣』編集部は、以下のように読者に説明している。

「我々はブルジョアジーが『下層階級』を抑圧し、搾取する目的で考え出した道徳や『人間性』の古い体系を拒否する。我々の道徳は先例の無いものであり、我々の人間性は、全ての形の抑圧と暴力を破壊するという新しい理想に基いているが故に、絶対的なものである。我々には全てが許される。なぜなら我々は、人類を抑圧し、隷属常態に追いやるためでなく、鎖から開放するために、剣を振りかざす、世界で最初の者だからである」

道徳から開放され、無制限の権力を、特権的待遇を与えられ、それ故に横柄、虚飾、残酷、無慈悲なエゴイズムを獲得したチェーカーは、赤色テロルでロシアの大地を血で潤した。殺戮は、システマティックに行なわれたものもあれば、統制が働かなかった結果である場合もあった。暴力がはびこり、裁判抜きの処刑が横行し、無制限の収奪が行なわれた。ある証言によれば、1921年に、このような光景が展開されていたようだ。「ナヒーモフスキ街は(略)逮捕された者の死体でいっぱいだった。・・・・町は死んでいた。住民は地下の穴倉や屋根裏部屋に隠れていた。全ての堀、家の壁、電柱、店のウインドーには、『裏切り者は殺せ!』と書いた紙がはられてあった・・・・見せしめのために街頭で絞首刑が行なわれた」。一件書類すら作らず大量の死刑を執行したチェ−カー司令官が訓令係に言い放った言葉は、「我々は階級敵としてのブルジョアを撲滅したのだ」というものだった。ボリシェヴィキは、農村から穀物を無理やりかき集めた。略奪に抵抗する農民は容赦なく殺された。チェーカー下級隊長の間では、汚職、略奪、強姦、コカインが蔓延し、チェーカー同士の内ゲバすら起こっていた。農民が理由無く殺される場合も多々あった。ボリシェヴィキの政治的な対立者であった連立政権のメンシェヴィキ、社会革命党党員も、拘禁し、拷問し、殺害した。レーニンが死去するまでの、レーニンの指令による赤色テロルによる死者は、百数十万人に上ると見られる。そして、スターリンは、テロルをボリシェヴィキ党内にまで持ち込み、党の重要メンバーを大量に粛清し、恐怖を市民生活の秩序に組み込んだ。

 

例2

「助けるのは貴方の義務ではない。逆にそれは、貴方がまだ同情心だとか、友情という感情を持っている証拠だ。そういう感情は捨てて、個人主義傾向を貴方の精神から根絶やしにしなければならない。早く自分のところに帰りなさい」

これは、カンボジア人の男性が、隣の重病の女性とその子供を助けに行ったとき、クメール・ルージュから言われた言葉である。クメール・ルージュは、オンカーへの服従に最大の価値を置いており、それ以外の感情を好ましく思って居なかった。

 

例3

ハンガリー共産党の長、ベラ・クーンは、次のように宣言した。

「我々は、ブルジョワの略奪者どもの血をもって革命精神をしみこませねばならない」

ハンガリーでは、令状無しの逮捕が執行され、多くの閣僚、僧侶が行方不明となった。

刑法は執行停止となり、裁判所の代わりに革命法廷が設置された。量刑は二つだけ、すなわち無罪放免か死刑のどちらかである。革命法廷では被告の弁論は数分間しか許されず、共産党員の裁判長が被告の顔色だけで判決を宣告した。革命法廷の一員であるバーゴは次のように宣言している。

「流血がなければ何もなしえない。流血がなければテロルはない。テロルがなければ、独裁はない」

1919年5月、陸軍の民主化が宣言され、将校の多くが射殺され、代わりに洗脳された戦争捕虜がその地位についた。学校における愛国教育は廃止され、共産主義教育がとってかわった。宗教は軽蔑され、神への冒涜が奨励された。僧侶の多くが街頭で子供の共産党員に殺害された。

テロは都市部だけでなく、農村部にも拡大した。テロル実行者の有名な人物はサミュエリーである。彼は、クーンにより農業政治委員に任命された。

サミュエリーの仕事は農業生産に係わることではなく、農民を共産党支持者にさせることだった。そして、方法は真っ赤に塗られた特別列車に乗り、農村部に行き、反対者をその列車に乗せ拷問にかけることだった。列車からは、拷問によって死亡した農民が時折投げ捨てられた。そして、駅で降りると、すぐさま死刑執行人に早替わりした。

死刑の方法は、農民の首にロープを巻き机に立たせ、机を蹴り、吊るすもので、しばしば家族の面前で執行された。拷問の方法も従来のハンガリーの伝統にないもので、反革命の陰謀について自白を拒否した女性の歯をノミで削りだすこともあった。別の場合は釘を頭に打ち付けられた。また、証言を拒否した女性の舌と鼻を縫い付けることまでした。ソルノックでは、前最高裁判事を手始めに24人を殺害した。もっとも極端なケースでは、「こいつら(共産党員)は野獣だ」と囁いた小学生が殺害された。

また、教育政治委員のポガニーは、ブルジョワの手垢に染まったとして、教科書を全廃した他、少なくとも教師150人を殺害した。この多くは視学と称して地方を旅行するとき実行された。

クンフィは元々ユダヤ人の社会民主党員だが、ブタペストの工場主に次のように語った。「我々は君たちが労働条件を改善することを一切望まない。なぜならば、それは階級闘争を弱めるからだ。我々が望むのは不満をもった大衆だ。」

そして、都市部において無秩序に陥った大衆が、あたり構わず隣人などを殺害することを煽った。

政治調査部主任コルビン=クラインも極端な暴力主義者であり、趣味は容疑者の尋問中、定規を口に突っ込み、ねじり回すことだった。自身は北部の製材所や製粉所の経営者で、戦前はそこで働く労働者を過酷に扱ったことで有名だった。

少なくとも千人の政治犯にたいし、勝手な名目で死刑を求刑し、殺害した。

ベラクーンは、ルーマニア軍がブタペストに迫ると側近を連れて、特別列車でウィーンに逃れた。着いたのは1919年8月1日であり、政権掌握からわずか133日あとのことだった。スイスのバーゼルに50万ポンドの横領した政府資金を置くことも忘れなかった。

その後、オーストリア社会民主党の助けを借り、ソヴィエトに亡命した。そして、世界各国の武装蜂起に関与した後、スターリンの大テロルにより、1937年5月に逮捕され、1939年に処刑された。

 

<参考文献>

共産主義黒書<ソ連篇>・ステファヌ・クルトワ他・2001年11月

共産主義黒書<コミンテルン・アジア篇>・ステファヌ・クルトワ他・2006年7月

www3.kiwi-us.com/~ingle/topix-2/red terror.html