許される殺人・2
ケース2・鬼熊事件
この事件は、大正15年8月に発生した当時、鬼熊事件と喧伝された、日本犯罪史上名高い事件である。
(経過)
岩淵熊次郎(35歳)は、荷馬車引きであり、やや気が短いが義侠心があり、周囲の評判は良かった。二つ年上の妻と5人の子供と共に暮らしていた。犯罪のきっかけは、女性関係の縺れだった。接客業の女Aに、馬車を売った金を貢がされた挙句に捨てられた。そして、その女の身を預けていた男Bに、その女を取られたのである。おまけに、村長のC、別の村民D、Eも、接客業の女性と肉体関係を持った。
↓
熊次郎は、AとDが同衾している所を発見し、傷害事件を起こした。しかし、自分とその女性を引き離した人々が自分を告訴したと知り、熊次郎は収まらなかった。
↓
熊次郎は、大正15年8月20日、Aとその叔母、Dを襲い、接客業の女性を殺害、叔母に重傷を負わせた。さらに、巡査宅でサーベルを奪い、Cを刺殺した。そして、Aの関係で恨みがあったE宅に火を放ち、消防団を追い返した。
↓
その後、熊次郎は逃亡を続けた。人望があり、犯行にもそれなりに情状酌量の余地があったためか、村民が食べ物をくれたりして、長期にわたって逃げ回ることが出来た。しかし、逃亡中の9月11日、警官を殺害してしまう。
↓
熊次郎は、責任を感じ、9月30日に、東京日日新聞の記者二名(熊次郎と数回にわたり密会して記事を作っていた)と、実兄の目の前で、先祖の墓で服毒自殺した。
↓
犯人隠匿、自殺幇助などの罪で、東京日日新聞の記者を含めた5名が有罪判決を受けた。
(波紋)
・ 警察官が嫌われていた
・ 犯行に情状酌量の余地があった
この二点が、同情の原因と思われる。
しかし、熊次郎に同情しすぎに思える記事もあった。最も顕著なのは、国民新聞である。
第一回<武士の血を受けた、侠と暴の両面>
第二回<奔流のごとき心に 人情美の動き 悪にも強ければ善にも強い>
第三回<奔馬を押さえて 娘を気絶させた話 暴れる牛の角を片手で折る>
第四回<馬車を売って 少女に貢ぐ 捨てられた感傷の心へ現われた可憐の少女>
内容も同情的であった。
鬼熊狂恋の歌、という歌も、演歌師により作られた。
また、鬼熊を題材にした『馬車引き熊公』という映画も作られた。
現在の千葉県民の熊次郎に関する印象も悪いものではなく、熊次郎の墓は今も残っている。また、熊次郎の妻子が村八分にされることも無かったらしい。
この事件を短く扱っている文献では、鬼熊は大抵好意的に書かれている。
当時においては、鬼熊に同情的、というよりも、寧ろ一種のヒーロー扱いされていた、と言った方が良いかも知れない。
《参考文献》
残虐犯罪史・1985年・
現場検証、昭和戦前の事件簿・合田一道・平成16年6月10日・幻冬舎アウトロー文庫