2007年4月20日
104-098 岡崎正尚
・許される殺人・大輝丸事件について
・・事件・・
大正11年10月、江連力一郎ら三十数名は、ソ連近海の船上において、ソ連人、中国人、朝鮮人を24名殺害し、金品を強奪し、死体を海に投げ込んだ。江連達は、最初は亡命白軍将校と自称する男や中国人馬賊の男たちに頼まれ、軍資金としてオコックで砂金を採取するつもりだった。赤軍と交戦する可能性もあるので武器を搭載し、陸軍参謀本部から武器を借りる当てもあったが、土壇場でオコック行きを禁止され、武器も借りることが出来なくなった。しかし、このまま帰るのはもったいないので、引揚者を便乗させてやろうと、ニコラエウスクに向かった。便乗者は拾えなかったが、赤軍の残酷行為の噂はたっぷりと耳にする事が出来た。そして、江連は犯罪を決意し、冒頭に書いた犯行を行ったのである。恐怖と罪悪感に駆られた仲間が出頭した事により、事件は発覚した。
・・判決・・
首謀者の江連には死刑、重要な役割を果たした二名には無期懲役が求刑された。江連らは強盗、殺人などで起訴され、判決は、大正14年2月27日に下された。江連は懲役12年、他のメンバーは8年から2年であり、執行猶予付きは3名だった。検察官は控訴したが、判決は変わらなかった。また、控訴審においては、江連は愛妻の墓参りのために、出所を許されている。判決時の新聞報道は、江連にやや同情的であった。「尼港事件の報復で、その意は壮とすべく」と、新聞に減刑を嘆願する投書も寄せられた。控訴審判決は、強盗に関して収得と認定した。
・・なぜこのような反応だったのか?・・
1・江連は、大学を中退し、親から生前分与された遺産を使って全国を武者修行して回る、という、冒険小説の主人公のような性格だった。このような人物は、戦前日本で好感を得ていた。長谷川伸は、義理人情実話で、江連を好意的に書いている。
2・江連らは、事件を起こしたのは日本人が虐殺された尼港事件の復讐、と主張した。この人物像や主張には、共鳴する者も多かったらしい。この手の政治的殺人と認識されたものは、戦前において、好意を持って報いられた(現在もかも知れない)。原敬が暗殺された時、万歳と叫びながら号外を配った新聞売りも居たのである。暗殺者に対する視線は、必ずしも冷たくなかった。
・・結論・・
その時々の世論の流れに沿っており、それが社会に深く認識されていれば、殺人さえも許される。
《参考文献》
・明治大正昭和犯罪史正談・小泉輝三朗・批評社・1997年
・各種新聞