2007年12月14日

104−098

岡崎正尚

 

<作られる事件像>

宮崎勤事件は、あらゆる不可解な犯罪の原点だったと語られている。

「あらゆる不可解な犯罪の原点に宮崎勤事件がある」(芹沢俊介による『宮崎勤裁判、下』の解説)

「20世紀末期の日本で次々と起きた、十代後半から三十代前半までの比較的若い者たちによる何とも動機が不可解な、しかし非常に陰惨な殺人事件の最初のものだったのだ。」(大澤真幸による『M/世界の、憂鬱な先端』の解説)

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確かに、幼女を次々と誘拐して殺害しバラバラにするという事件は、極めて稀な猟奇事件であるには違いない。

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しかし、宮崎勤事件以前にも、猟奇的で不可解な事件は発生していた。戦前においても同様である。

(事例1)

昭和八年大阪。数え年11歳の小学2年生の少年が、9歳の少女の家でこの子の小遣い2銭を盗って逃走した。この9歳の少女と、其の6歳の妹と、親戚の9歳の少年が、11歳の少女を追いかけた。少年は、追いかけてきた少年と少女を公園で池に叩き落して殺害し、少女の妹を絞め殺して池に突き落とした。すぐに逮捕されたが、自分の姉や父が共犯である、などと供述を変えていた。

(事例2)

昭和11年東京向島で、数え年18歳の少年が、幼女二人を次々と殺害した。6月6日に肉切包丁をもって新たな獲物を物色するためにうろついている所を逮捕された。第一の殺人では、強盗を思いついたが、空き地で母親を待っている10歳の少女の姿を見つけるといきなり刺し殺した。第二の事件では3歳の幼女宅に侵入して殺害しているが、動機について「一人で寝ている幼女の姿が恐ろしかったから刺した」と不可解な供述をしている。探偵小説マニアで、工場などに脅迫状を送り、騒ぎが大きくなるのを歓んでいた。普段は良い子だった。一審無期懲役となったが、不服として控訴した。

(事例3)

昭和12年、東京杉並区で、満15歳の少年が、不可解な理由で美貌の人妻を刺殺し、逃亡先で逮捕された。少年は中学を中退してぶらぶらしていたが、東京の叔父の家に上がりこんでいた。家には、叔父はおらず、叔母と、其の妹の人妻が居た。事件当日、少年は書斎の本を読んでいたが、何かちょっとナイフで刺してみたいような気がし、家の中をうろうろしていると、人妻が四つんばいで新聞を読んでいるのが目に入った。衝動的に臀部を刺し、逃げる人妻を追いかけて、更に58箇所を刺して殺害。幼い叔母の長男は犯行を目撃していた。少年は内気で探偵小説マニアであり、白粉や口紅をつける癖があった。「カマボコやコンニャクのようにクニャっとしたものに見えたので刺した」と自供した。検察官は、「動機がありながら意思がない典型的な少年犯罪」として、研究資料とするため少年に手記を書かせた。精神鑑定の結果、不起訴。しかし、発言は極めて秩序だっていた。18歳の時、27歳の女と心中を計り、自分だけ死亡する。

(事例4)

昭和16年から17年にかけて、自分の家族を含めた9名を殺害し、6名の傷害を負わせた木村誠策は、昭和17年の逮捕時、満18歳だった。昭和16年8月18日、芸妓二人を殺傷。20日には料理屋で女主人と使用人二人を殺害。9月27日には自宅で強盗を装って兄を殺害。兄の妻子、父と姉に重傷を負わせた。昭和17年にはたまたま電車で乗り合わせた女性宅に侵入し、その両親と姉と弟を殺害。女性を強姦しようとしたが失敗する。誠策は聾唖者であり、家族方冷たくされていると感じていた。実際、父親は冷淡であったらしい。学費稼ぎと強姦を目的としていたようだが、「血を見るのが楽しかった」とも言っていた。知能は優秀だったが、道徳判断に欠陥があった。家族は家族殺しの犯人が誠策と感づいていたが、いえないで居た。父は逮捕後、自殺する。

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残虐で不可解な犯罪は、何も宮崎事件を境に始まったわけではない。しかし、言論人たちは、宮崎勤を空前絶後の事件に祭り上げた。宮崎は、検察側が示した性的殺人という見解を否定し、自分でも動機が解らない、夢の中の事のようだった、などと述べた。そして、言論人たちも、足並みをそろえるかのように、検察側のストーリーに反発を示した。

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どの様なタイプの事件か、という一般に提供される事件像は、マスコミなどの手によって作られる。

 

<参考文献>

『犯罪不安社会』・浜田浩一、芹沢一也・2006年12月・光文社新書

『戦前の少年犯罪』・管賀江留郎・2007年10月・築地書館