104-098
岡崎正尚
2006年7月7日
犯罪に対する民衆の意識の変容
・「毒婦」について
「毒婦」。明治初期の女性犯罪者は、このような呼称をつけて呼ばれる事がしばしばあった。「毒婦」と認定されるのには、当時隆盛を極めていた実録物や芝居の題材として取り上げられる事が重要だったらしい。そうした物語の中では、女性犯罪者たちは、数奇な生い立ちを背負い、残虐な犯罪を何の感情の揺らぎも無く行い、奇妙な風習を持つ、異人種のように書かれていた。
高橋お伝の場合・・・・その罪状は1名を金銭目的で殺害した事に留まるが、仮名垣魯文による実録物には、連続殺人を敢行したかのように書かれている。途中までは貞淑な主婦と慰して書かれているが、物語の途中から、堰を切ったように連続して悪事を敢行するような女となっており、心理に一貫性が乏しい。また、同じく、魯文の手による実録物の中では、親子の証明をするために、父親として書かれているヤクザ者の血と自分の血を皿の中に垂らす、という奇怪な親子識別法を用いたとされている。因みに、二人の血が交じり合えば、それは親子である、という事になるらしい。
実録物におけるこうした描写を鑑みるに、当時においては、現代のような犯罪者の非人間化が行なわれていただけではなく、犯罪を脚色し、それを一種の物語として消費する事が常識的に行なわれていた。犯罪は、正しく娯楽であり、犯人は自分たちとは関係の無い常軌を逸した人間で無ければならず、恐るべき悪鬼であると同時に祝祭の提供者でもあった。高橋お伝の死体が、犯罪の原因究明のために解剖に付された事を持って、犯罪が分析、研究の対象と考えられ始めていた事は伺える。しかし、社会にとって、犯罪者は社会問題の象徴でも分析の対象でも無く、事件の真実など、如何でも良い事であった。さすがに新聞は事実を書くように心がけていたようであるが。
しかし、この時代には、戦後から90年代前半までに見られるような、犯罪者に自己を投影し、犯罪者を使って自分語りをするような姿勢は、まだ見えなかった。この当時、民衆にとって犯罪者は、もっと自分から突き放したところにある娯楽だった。
<参考文献>
朝倉喬司『毒婦伝』1999年4月・王国社
合田一道、犯罪史研究会『日本猟奇、残酷事件簿』2000年6月・扶桑社
『明治、大正、昭和、平成事件犯罪大辞典』2002年・東京法学院出版
1・夜嵐お絹事件
明治4年1月12日、高利貸、小林金平の妾、原田きぬ(29?)は、愛人であり、歌舞伎の人気役者であった嵐璃鶴と添い遂げたいが為に、小林金平を、石見銀山鼠取り(砒素)を用いて毒殺した。科学技術が未発達だったためか、検挙には時間がかかり、きぬが逮捕されたのは、同年7月だった。璃鶴も、舞台姿のまま、警察にしょっ引かれた。逮捕された当初、きぬは、璃鶴も共犯であると言い募っていたが、11月18日、牢獄で子供を出産してからは、単独犯である事を自白した。きぬの断罪は、「分娩後一百日ヲ経ルニ非ザレバ刑ヲ行ハズ」の刑律に従ったため、大幅に遅れた。原田きぬには、明治5年2月20日、梟首(晒し首)が言い渡された。死刑は、同日執行された。冷静な態度で死を受け入れたらしい。死刑執行を行なったのは、山田浅右衛門だった。璃鶴には、きぬと密通し、殺害計画を知っていながらどうしようともしなかったため、徒罪二年半が言い渡された。
明治11年に、芳川春涛の著作である、「夜嵐於衣花廼仇夢」という本が刊行された。この本は、虚実ない交ぜになった、当時流行の実録物だった。芝居小屋も、お絹の事件を取り扱うと、連日満員となった。
2・高橋お伝事件
明治9年8月27日、浅草の旅籠にて、古着屋、後藤吉蔵の死体が発見された。発見したのは、旅籠の主人と女中であり、なかなか起きてこない男客を不審に思い、部屋に見に行った事が、発見のきっかけとなった。吉蔵は、喉元を切り裂かれて殺害され、死体の側には、後藤を殺したのは姉の仇討ちである、という旨の書置きが残されていた。容疑者として、男客と共に投宿し、死体発見の数時間前、男を起こさないようにと言い残して出て行った女客が有力視された。やがて、その女客は、9月上旬に逮捕され、犯行を自白した。女客は、高橋お伝(29)といい、内縁の夫と共に営んでいた商売に失敗し、借金に追われていた。仇討ちという犯行動機は、嘘であった。吉蔵を誘惑して借金を頼んだが断られ、吉蔵の持っている金を手に入れようとした、というのが、後藤を殺害した動機だったらしい。お伝は、最初は、犯行動機を素直に自白したと思われる。しかし、後に供述を二転三転させたため、判決が下るのには、明治12年1月31日までかかった。判決は、斬首だった。処刑は、その日のうちに行なわれた。お伝は、悲鳴を上げ、髪を振り乱し、内縁の夫の名前を呼び、「南無阿弥陀仏」と叫びながら、首を切られた。お伝の死刑執行を行なったのも山田浅右衛門だったが、首をねじ切るような状態で処刑は行なわれたという。
お伝については、仮名垣魯文が、お伝の処刑からわずか3か月後に、絵草紙『高橋阿伝夜刄譚』を書き上げ、河竹黙阿弥も、『綴合於伝仮名書』(とじあわせおでんのかなぶみ)を書き上げた。河竹黙阿弥は、一応お伝の裁判を取材した上で執筆したらしい。しかし、仮名垣魯文の書いたものは全くの出鱈目で、お伝が懸命に面倒を見ていたハンセン氏病だった前夫を殺し、更に連続して人を殺した、等と書いていた。この事は、裁判でも全く立証されていない。あまりの内容の酷さに、お伝の内縁の夫が怒鳴り込んでくる始末だった。お伝は、逮捕後の態度は狡猾だったものの、前夫の生前に、ハンセン氏病であった前夫を見捨てる事無く懸命に面倒を見ていた事を考えれば、基本的には性格の良い女性ではなかったのか、とも思える。その事からは、「毒婦」という忌まわしいイメージは湧いてこない。しかし、実録物や芝居によって、お伝は毒婦のイメージで、幾重にもその身を縛められてしまった。そのイメージは、お伝の死後にも影響した。犯罪資料として、お伝の遺体は解剖され、陰唇はホルマリン漬けにされて保存される事となったのである。昭和戦前に、軍医が、お伝の陰部の特徴を鑑定して、ドルメンという医学雑誌に記事を書いたことがあった。この時は、東大医学部に保管されていたらしい。現在はどうなっているかわからないが、戦後に衛生博覧会の見世物として出品された事もあったという事だ。