2006年7月21日
104−098
岡崎正尚
昭和戦前1・美談に萌える時代
大きく報道される犯罪は、その時代におけるニーズに沿った事件である。戦前においては、所謂美談が、そのニーズの内の一つであった。
・寺島バラバラ殺人事件
昭和7年3月7日午前9時50分ごろ、東京の娼窟である通称おはぐろどぶで、ハトロン紙に包まれた、男性の胴体と首が発見される。死体の手足は発見されず、明治の事件以来数例目のバラバラ殺人事件となった。死体は、絞殺した上で手、足、首を切断したものと推定された。致命傷は、鈍器による殴打だった。
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被害者の身元は解らず捜査は長引き、東京朝日新聞では浜尾四郎、江戸川乱歩が犯人像の推定を行い、東京日々新聞では推理作家たちによる犯人像の推理が行なわれる。
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事件から7ヵ月後、犯人逮捕。犯人たちは、現在無職の長谷川市太郎(39)、その弟で、帝大写真室雇用人の長太郎(25)。被害者は、元浅草ルンペンの千葉龍太郎。
事件の経緯は、千葉の暴行が発端だった。千葉は、食うに困っている時に、市太郎から金を恵んでもらい、昭和6年5月ごろ、市太郎の家に引き取られた。そして、市太郎の妹と恋愛関係になり、市太郎の妹は、千葉の子供を妊娠した。市太郎一家も、その関係に口を挟む事はなかった。しかし、やがて千葉は働きもせず暴力を振るうようになり、市太郎の妹との子供も、虐待した末、死亡させた。こうした事から、長谷川一家は、千葉に対して恨みを募らせていった。そして、昭和7年2月13日、千葉の態度に立腹した市太郎と長太郎は、千葉を撲殺し、妹、母も共謀して、死体をバラバラにした。当初、市太郎達は同情された。
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朝日新聞の見出し
10月21日付け・浅草ルンペンから救われた被害者、親身も及ばぬ長谷川一家の同情、恩を忘れた千葉の凶暴、庇いあう犯人兄弟
10月22日付け・「この手、この足が」と斬離し恨を晴らす、郷里では模範生・市太郎の素性
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事件の映画化計画される。河合映画では、「呪いの宿命」、新興キネマでは「愛と憎しみ、涙の惨劇」、日活では「涙の一撃」。事件解決から一週間で4本の映画が作られ、封が切られようとしていた。
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昭和7年10月29日、千葉の「自分は資産家の息子である」という虚言を真に受けて千葉親子を引き取った、という記事が掲載されてから、市太郎たちは一転して悪人扱いされだした。市太郎は、千葉に親切心から金を恵んでやったが、家に引き取ったのは、千葉の虚言に惑わされて、資産を得られる期待をした面もあったらしい。封が切られる予定だった映画は、殆どが中止された。
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朝日新聞の見出し
10月29日付・世の同情をそそる巧妙な自白の裏、残虐バラバラの真相、欲から出た親切、土産の大金があて外れ千葉を漸く憎悪
10月30日付・検察局強硬、犯人に同情は不可と
11月2日付記事・「市太郎は始終ニタリニタリ笑いを浮かべ本性のずうずうしさを発揮しながら・・・・」
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市太郎は、懲役15年を求刑され、一審で懲役15年、二審で12年を言い渡された。長太郎は、一審では懲役10年を求刑され8年。妹は、懲役6ヶ月を求刑され、その通りの判決だった。母は起訴猶予となった。
千葉は、事実、大酒のみの怠け者であり、長谷川一家に暴力を振るってもいたらしい。千葉は働かず、ただでさえ苦しい生活はより苦しくなった。千葉に遺産を貰ってきてもらうよう、長谷川一家は苦しい中から旅費を捻出して、千葉に頼んだ。しかし、千葉は、小作争議で土地が売れなかった、と嘘を言うのみで、何もしなかった。資産家の息子である事が嘘だと解っても、千葉は出て行かず、暴力を振るっていた。厳重な態度を取るほど、市太郎の妹やその乳児に当たる。犯行の日には、長谷川一家から出て行けといわれ、市太郎の妹を連れて出て行こうとした。この時、市太郎の怒りは一気に爆発し、側にあったスパナで千葉を殴り、長太郎、母も手を貸して、千葉を殴り殺した。犯行発覚後、兄弟は互いに庇いあっていた。
このように、長谷川一家に同情の余地はあった。にもかかわらず、あれほどにまで悪し様に言われたのは、所謂ニーズに沿うと考えられていた事件が、其処から外れそうになったため、マスメディアがヒステリーを起こしたと考えられる。因みに、犯行に至る経緯や事実関係は、マスコミもきちんと把握していた。21日付の記事と29日付の記事の相違は、長谷川一家が利益を多少なりとも期待したか否かだけである。利益を期待すること自体が悪いとは思えないが、マスコミにとって、長谷川一家は一点の曇りも無い存在でなければならなかったのだろう。
《参考文献》
東京朝日新聞
1997年「昭和犯罪史正談」小泉輝三朗、批評社