7月14日

104−098

岡崎正尚

 

・子供は、昔は安全だったか

戦前においては、もらい子殺しが隆盛を極めていた。

貰い子殺しとは、事情があって育てられない赤ん坊を養育費目当てに貰い、その赤ん坊を死なせる犯罪。

貰い子殺しの量刑は、そう重いものではなかった。

明治4年の新聞雑誌には、貰い子2人を殺害した主婦が絞首刑になったという記事と、東京都の主婦が貰い子2名を殺害して斬罪となった、という記事が所収されている。明治前期に貰い子を四人殺害した中川吉之助という男には、明治20年に死刑判決が下された。

                 ↓その後、量刑緩和?

明治41年に、東京で貰い子6人を殺害した夫婦には、死刑求刑に対し、無期懲役の判決。

昭和2年に貰い子を6人貰って、6人とも千葉県の山中に埋めた男には、無期懲役の判決。

昭和5年、貰い子殺しの部落として喧伝された岩の坂事件で、貰い子を1名殺害したとして検挙された小川キクは、懲役7年の判決。小川は、7,8名の殺害を疑われていたが、自白したのは1件だけだった。また、岩の坂部落では、集団で貰い子殺しをしていたかのような報道がなされ、数名の名前も挙がったが、公判に付されたのは小川一人だけだった。

昭和5年に貰い子7人を殺害した元巡査には無期懲役の判決が言い渡された。

↓勿論、死刑判決が下されるケースもあった。

明治42年5月、佐賀県で貰い子殺しの犯人であるとして、百武栄一・タカ夫婦が逮捕され、両名に貰い子を斡旋したとして、ツバキ商人の松本ツエが逮捕された。百武は60名の殺害を自白し、赤ん坊の死体は20数名発見された。百武夫婦には死刑判決、松本には懲役12年。

大正12年に東京で貰い子20数名を殺したとして逮捕された男には、死刑判決。

昭和8年に、貰い子殺しで懲役4年の判決を受けた前科があり、出所後24人の貰い子を殺した川俣初太郎には、死刑の判決。川俣は控訴せず服罪。

 

現在と明治や昭和においては有期刑の重みは違うかもしれないが、死者1名の強盗殺人でも死刑となる事例があった戦前においては、それと比較して貰い子殺しの量刑が軽い印象は否めない。こうした量刑事情には、殺意を立証する事が困難だった事が関係しているかもしれない。貰い子を、自らの貧困の為に食べさせる事ができなかった、と言えば、言い訳は効く。死刑になった川俣初太郎は、赤ん坊を絞め殺していた。

戦後には、貰い子殺しは、大幅な減少を見せる。1948年に検挙された、貰い子24人あまりを死亡させた(100数十名あまりを殺害した疑いがもたれていた)壽産院事件を最後に、貰い子殺しはニュースになったことは無い。恐らく、堕胎が可能となり、妊婦が望まない子供を産まずに済むようになったため、貰い子殺しは需要が無くなったのだろう。貰い子は、事情があって育てる事の出来ない子供を貰い受けて育てる、というのが本来の趣旨であった。しかし、親が、望まない子供に手を煩わされないようにする、という役目も担っていたと言う事は容易に想像できる。臨まない子供を産む必要が無くなったのだから、需要は当然減る事となる。

因みに、壽産院事件では、院長の石川ミユキ、その夫の石川猛が逮捕された。捜査の手が入った時点で、5人の赤ん坊が餓死、凍死しているのが発見された。その時、産院には、砂糖、粉ミルク、酒、米があった。両名は、殺意があっての貰い子殺しである事を自白し、殺人罪で起訴された(裁判で殺意は否認)。昭和23年10月11日、ミユキには懲役8年(求刑15年)、猛には懲役4年(求刑7年)が言い渡された。両人は控訴し、昭和27年4月28日、ミユキは懲役4年、猛は懲役2年に減刑された。

 

《参考文献》

2002年『明治大正昭和平成事件犯罪大辞典』東京法学院出版

紀田順一郎、2000年『東京の下層社会』筑摩書房

朝日新聞